前九年の戦い・第五話
歴史上の戦いシリーズ第四弾、前九年の戦い第五話、最終話です。
第一話は戦いに至る経緯
第二話は前九年の戦いの序盤
第三話は前九年の戦いの中盤
第四話は前九年の戦いの終盤
について述べました。今回はちょいと後日談を。
後日談と言ってもですね、あんまり詳しく書いちゃうと、いずれここで書くつもりの後三年の戦いのネタバレになってしまうので、当たり障りのない程度に。
まずは源氏ですが、頼義は陸奥守の再任を望んでいたものの伊予守にされ、不満を抱えながら亡くなったようです。息子の義家はのちに後三年の戦いで活躍し、「武門の棟梁」という存在になるんですが、彼もまた決して恵まれた人生でもなかったようです。
2人とも晩年は不遇に近かったんですが、それは、前九年・後三年の戦いにおける2人の活躍によって、武士という存在が重きをなすようになり、彼らにあまり権力を持たせないよう、朝廷が画策した部分があるみたいなんですな。どちらの戦いにおいても朝廷がロクに援軍を送らず、頼義・義家たち自らが兵を集めなければいけなかったは、そういう理由によるものです。
ただし、そういったことは朝廷の扱いの問題であって、東国を中心とした武士団からは絶対的な存在に近い尊崇の念を受けたようです。のちのち源頼朝が挙兵した時に、関東の武士団が続々と従いましたが、これは、「義家の子孫である源氏こそ武門の棟梁たるべき血筋であり、自分達はそれに従うべき血筋である」という意識を代々育み続けてきたのが大きな要因だったんです。
続いて安倍一族。当主の貞任は戦死しましたが、貞任の弟宗任は一旦逃亡したのちに投降。京都で公卿の前に引き出された時に、公卿たちが梅の花を見せて、「蝦夷の国ではこの花のことを何て言うんだ?。そもそもこんな花は見たことないか?」と宗任をからかいました。これに対し宗任は、「わが国の梅の花とは見たれども、大宮人はいかが言ふらん」と歌で答え、公卿たちを驚かせました。
蝦夷だ俘囚だと蔑視されていた彼らですが、それは中央の人間が地方の人間をただ単に見下していただけに過ぎないことでして、決して知識や教養といった部分で劣っていた訳ではなかったようです。
宗任は結局伊予に流罪となったんですが、頼義が戦後に伊予守に任じられたのは、その監視役という意味合いもあったと言われています。その後、宗任は筑前に移され、そこで亡くなりました。ちなみに、子孫は治承寿永の乱(源平の戦い)に際して平家に味方し、平家が壇ノ浦で敗れた後に山口に流罪となりまして、その血筋は山口で脈々と続いて現在に至ってます。前総理の安倍晋三さんも、安倍一族の末裔だそうです。
安倍一族に代わって陸奥の支配者となった清原一族については、いろいろあるんですけどね、後三年の戦いを書く時までのお楽しみと言うことで。
それから、錆びた刀で鋸引きのように斬首された藤原経清についてなんですが、息子は生き延びまして、のちに奥州藤原氏の祖となります。まあこれも後三年の戦いを書く時に詳しく触れますんで。
という訳で、なんだか後三年の戦いの予告編みたいな感じになってしまいましたが、そんなすぐには書かないと思うんで、気長にお待ち下さい。
以上、歴史上の戦いシリーズ第四弾、前九年の戦いでした。
おしまい。
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ワイド9-13:104.8倍






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