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2006/12/11

大坂の陣・第八話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第八話、最終回です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
第三話は大坂冬の陣の後半
第四話は冬の陣から夏の陣へ至る経緯
第五話は大坂夏の陣の序盤
第六話は大坂夏の陣の中盤
第七話は大坂夏の陣の終盤
について述べましたので、今回は簡単なまとめです。

まとめ

登場人物が多く、局地戦が多いので、何が何やら良く分からんとお怒りの諸兄もいると思いますが、要するに、豊臣が滅びて徳川の天下が定まっただけのことです。なぜそうなったかと言えば、基本的には豊臣家の内部崩壊です。

今の時代になぞらえて言えば、豊臣商事という会社があって、現場から叩き上げの秀吉社長のもと、徳川商事などの優良子会社を抱える大企業だった訳です。ところが秀吉が死に、息子の秀頼が幼少だったため、石田三成家康ら取締役が仕切ることになりました。

両者は方針の違いから対立し、三成は家康に敗北。結果、家康の勢力が大きくなり、徳川商事は豊臣商事から独立。豊臣商事は、秀吉の愛人淀殿がビジネスの知識も無いのに社長に就任したため業績は悪化。優良顧客は徳川商事に奪われ、優秀な社員もヘッドハンティングされていきました。すっかり立場が逆転し、徳川商事が豊臣商事を子会社化しようとしますが、気位の高い淀殿はそれを認めず、両者は対立した訳です。

ところがその頃の豊臣商事は、親のコネだけで入社した大野治長のような人材しかいなかったので、急遽バイトを募集しました。その中には真田幸村など優秀な人材もいたんですが、いざという時になると使えない正社員を重用するので、なかなか業績は上がらず、社内で内輪揉めも絶えなくなっていきます。

そもそも、この当時の豊臣商事の体力で、徳川商事と真っ向勝負をするのは無理だったのに、内輪揉めが絶えなかったもんだから、豊臣商事は倒産した、という訳です。

簡単に言えば、こんだけのことです。もうちょい豊臣商事内部で一致団結していれば、また結果も違っていたかも知れませんが、いずれにしても秀吉時代のような勢いに戻すことは難しかったでしょう。素直に徳川商事の子会社になって、大人しく従属するしか、生き残る道はなかったということです。

Natsunojin4

で、話は変わって1つ1つの局地戦のレベルを考えてみると、かなりレベルの低い戦いだったと言えます。虚報に踊らされて退却したり、ほぼ無人の砦にガチンコで攻め掛かったりして、徳川方も豊臣方も、情報収集という部分でかなりお粗末なところを見せてたんでね。まあ、徳川方としては、本気で戦わんでも勝てるという気の緩みがあったんでしょう。豊臣方としては、内部の連携や戦略がグダグダだったんでしょう。

両軍の総兵力が数十万人という大規模な戦闘なので、歴史上の戦いの中ではかなり有名なんですが、上記のようにレベルは決して高くありません。やはり両者の実力に大きな開きがあったことが、要因だと思われます。

しかし、レベルはどうあれ、歴史的意義は大きい戦いです。単に徳川政権が確立したということだけでなく、徳川政権がかなり専制的な体制であることをアピールした戦いだったんでね。方広寺鐘銘事件にしても、惣構か総構かって話にしても、家康のゴリ押しが何でもまかり通ったし、周囲もそれに異を唱えることができなかったし。

実際、この後250年ほど続いた江戸幕府は、「幕府がこうと言ったらそれに逆らうな。逆らったら取り潰し」という専制体制で長続きした訳で、その体制のお披露目と言うか、開会式と言うか、それがこの大坂の陣だったと言えるでしょう。

以上、歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣でございました。
ふぅ…、今回も長々と書いてしまった。次こそ、もっと簡単にサラッと終われる戦いを取り上げたいと思います。

2006/12/05

大坂の陣・第七話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第七話です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
第三話は大坂冬の陣の後半
第四話は冬の陣から夏の陣へ至る経緯
第五話は大坂夏の陣の序盤
第六話は大坂夏の陣の中盤
について述べましたので、今回はその続きです。

大坂夏の陣・終盤

Natsunojin3

⑤天王寺・岡山の戦い

前回触れたように、慶長20(1615)年5月6日、道明寺若江八尾の戦いに敗れ、後藤又兵衛薄田兼相木村重成らを失った豊臣方は、翌7日に最後の決戦を挑みます。その作戦は、「天王寺口から岡山口にかけて布陣して徳川方主力を引き付け、その隙に別働隊が迂回して家康本陣を襲撃する」というものでした。

豊臣方は、天王寺に真田幸村の5000、毛利勝永の4000、岡山に大野治房の5000を配置し、家康の本陣を襲撃する別働隊は明石全登が300の精兵を率い、その他も含め総勢約50000で布陣します。一方の徳川方は総勢約150000と3倍の兵力。当たり前のことですが、厳しい状況でした。

決戦の前、幸村は息子の幸昌を大坂城へ向かわせ、兵の士気を上げるために秀頼の出馬を乞います。しかし、秀頼自身の意思か、はたまた淀殿の意思か、結局最後まで秀頼が城外に出ることはありませんでした。

そして7日の正午頃、最後の決戦が始まります。まずは毛利勢の一部と本多忠朝の鉄砲隊が激突。しかしこれは、当初の「徳川方主力を引き付ける」という作戦に齟齬を来すため、すぐ近くにいた幸村が攻撃中止の伝令を送り、毛利自身も自らの兵に退くよう指示しました。しかし、乱戦で指示は伝わらず、そうこうする内に、徳川方は小笠原秀政が援護に来て20000ほどになり、否応なく激戦となってしまいます。

結局、小笠原が重傷を負い、忠朝が討ち死にしたことで、豊臣方は徳川方先鋒を崩すんですが、これではガチンコの総力戦になってしまい、兵力で劣る豊臣方には不利。明石の別働隊の意味も薄れ、当初の作戦はご破算となってしまいました。

ここに至り、幸村も毛利も「あとは死に花を咲かせるか、家康の首を獲るか、2つに1つ」という覚悟をし、決死の突撃を開始。幸村は松平忠直13000の陣を強行突破し、毛利も忠朝、小笠原の陣を突破、ひたすら家康の本陣を目指します。

この時、幸村が「浅野長晟が裏切った」というデマを流したため、徳川方は混乱に陥り、家康も本陣を後退させます。一旦は家康が切腹を覚悟したと言われるほど、徳川方は幸村に翻弄されますが、最終的には衆寡敵せず、徐々に押し返されます。幸村は安居神社まで戻って休んでいるところを、忠直の配下西尾久作によって討ち取られました。

その間、別働隊として控えていた明石も態勢不利と悟って参戦しますが、忠直の陣を若干崩したのみ。岡山口でも治房が前田利常の15000を相手に奮戦したものの、次々と現れる徳川方の援軍に対応しきれず敗退。夕方になって徳川方は大坂城に乱入、城内の内通者が放火したため、大坂城は紅蓮の炎に包まれて落城しました。

秀頼や淀殿、戦場から戻っていた大野治長、毛利勝永、真田幸昌らは、焼け残った倉に難を避けていましたが、翌8日に徳川方に発見されます。治長による秀頼らの助命嘆願も叶わず、女中らも含めた約30名が倉の中で自害。こうして大坂の陣は終わり、豊臣家は滅亡しました。

かなり掻い摘んで書きましたが、以上が大坂の陣の全容です。次回は簡単なまとめです。
では、続きは第八話で。

2006/11/27

大坂の陣・第六話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第六話です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
第三話は大坂冬の陣の後半
第四話は冬の陣から夏の陣へ至る経緯
第五話は大坂夏の陣の序盤
について述べましたので、今回はその続きです。

大坂夏の陣・中盤

Natsunojin2

③道明寺の戦い

慶長20(1615)年5月に入り、徳川方は水野勝成伊達政宗ら約33000が大和路を進軍。これに対し豊臣方は、道が狭く大軍が行動しにくい国分付近で徳川方を迎え撃つべく、5月5日に先鋒の後藤又兵衛薄田兼相ら6000、後詰めに真田幸村毛利勝永ら12000がこの方面へ向かいました。

6日早朝、後藤の3000が道明寺に着くと、すでに徳川方は国分に布陣していました。後藤は、後続の到着を待って攻撃する予定でしたが、霧のために到着が遅れており、このままでは機会を逸すると判断、手持ちの兵だけで攻撃を始めます。

後藤は国分のすぐ近くにある小松山を占領し、ここから攻め立てました。高所からの攻撃で当初は優位に戦ったものの、次第に周囲を包囲され、徐々に追い詰められます。そして、後藤が流れ弾に胸を撃ち抜かれて討ち死にし、隊は壊滅状態となりました。

その頃、ようやく薄田の3000が道明寺に到着。これに後藤を屠った徳川方が襲い掛かると、「橙武者」の汚名を返上すべく薄田は奮戦しましたが、結局は乱戦の中で討ち死に。その後、午前10時頃に真田、毛利の12000が到着。敗残兵を吸収し、誉田片倉重長らと戦いますが、両者譲らず痛み分けという感じでお互い退却しました。

④若江・八尾の戦い

道明寺の戦いと同じ5月6日、豊臣方は木村重成の6000が若江長宗我部盛親の6000が八尾へ進軍。対する徳川方は藤堂高虎の5000、井伊直孝の3000が布陣し、南から進軍してくる家康本隊の先鋒の役割を果たしていました。

藤堂、井伊ともに、当初は道明寺方面への援軍を命じられていたため、木村、長宗我部への対応を逡巡しますが、まず藤堂が八尾へ2500を、若江へ1000を向けます。若江へ向けた1000は木村の前に壊滅状態に陥り、これを知った井伊の3000が若江に加勢。さらには榊原康勝丹羽長重ら6000も援軍に駆け付けたため形勢は逆転、木村は討ち死にし、敗残兵は大坂城へ退却しました。

一方、八尾では藤堂と長宗我部が熾烈な激戦を繰り広げます。と言うのも、関ヶ原で負けて領地を没収された際、長宗我部家臣の一部が藤堂高虎に仕官しており、旧友同士が戦うハメになったから。お互い手抜きなしのガチンコ勝負が続きましたが、やがて若江で木村が壊滅し、手の空いた井伊が八尾に転進してきたため戦況不利となり、長宗我部は大坂城に撤退しました。

ちなみに、大坂城に戻った長宗我部盛親は、翌日の最後の決戦には参加せず、敗北が決定的になると大坂城を脱出。その後は京都に潜伏しますが、やがて捕らえられ、六条河原で斬首の刑に処されました。

以上が大坂夏の陣の中盤です。
では、続きは第七話で。

2006/11/14

大坂の陣・第五話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第五話です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
第三話は大坂冬の陣の後半
第四話は冬の陣から夏の陣へ至る経緯
について述べましたので、今回はその続きです。

大坂夏の陣・序盤

慶長20(1615)年4月7日、家康によって諸大名に出陣命令が出され、家康が18日に二条城に到着、秀忠が21日に伏見城に到着し、22日から作戦会議を始めます。対する豊臣方は12日、牢人衆に金銀や武器などが配布され、徐々に戦備を整えます。

Natsunojin1

①大和郡山の戦い

豊臣方は徳川方の機先を制するため、徳川方が侵攻する際のルートの1つである、大和郡山城の攻略を決定。4月26日、大野治房の2000が侵攻します。

徳川方は大和郡山城を筒井正次に任せていましたが、その軍勢は1000足らず(一説には僅か36人)。しかも、治房が郡山付近に来たのは夜だったため、筒井はかなりの大軍が押し寄せてきたと勘違いし、一戦も交えずに福住に退却します。

筒井が退却した事を知らない治房は、翌朝になって郡山城を落とし、その勢いを駆って奈良へ攻め込もうとします。ところが、水野勝成の大軍が進軍中という虚報に踊らされ、今井へ方向転換。しかし、ここで松倉重政率いる僅か60人ほどの鉄砲隊に翻弄されて、治房は結局大して得るところもないまま大坂城に退却しました。

②樫井の戦い

この当時、和歌山を領していたのは浅野長晟ですが、浅野家は豊臣家と縁続きで、父長政や兄幸長は終世豊臣家に仕えたものの、長晟は冬の陣から徳川方に付いていました。そんな訳で、「この裏切者めが!」という感じで、豊臣方はこの方面に侵攻します。

まずは、この方面の土豪や領民に一揆を起こさせて揺さぶりをかけ、4月28日、大野治胤の2000が進軍を開始、後詰めには大野治房の3000が続きました。手始めにの町を焼き払い、岸和田へ到着。徳川方はここを小出吉英に守らせていましたが、小出は一切応戦せず籠城したため、豊臣方は抑えの軍勢を残してさらに進軍します。

一方、浅野の5000も4月28日に和歌山を出陣。まずは、一揆の指揮を執っていた大野治長の家臣を捕らえて殺し、佐野まで進軍。しかしここで、「豊臣方は20000の大軍」という虚報を聞き、地形的に有利な樫井まで退くことにします。

治房が佐野に到着すると、浅野はすでに退却した後。しかし、それほど時間は経っていなかった事から、先鋒の塙団右衛門岡部則綱が追撃を開始。ところが、両者は子供じみた先陣争いを繰り広げ、樫井に着いた頃には本隊から完全に離れてしまいました。「こりゃあまずいな」と思ったのも束の間、待ち構えていた浅野の餌食になり、塙は討ち死にし、岡部はほうほうの体で逃げ帰りました。

治房は、先鋒が全滅に近い敗北を喫したことを知り、急いで樫井に向かいましたが、そこには味方の死骸が転がっているばかり。浅野は素早く退却していたため、結局何もできないまま大坂城に退却しました。

以上が大坂夏の陣の序盤です。
では、続きは第六話で。

2006/11/06

大坂の陣・第四話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第四話です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
第三話は大坂冬の陣の後半
について述べましたので、今回はその続きです。

冬の陣から夏の陣へ至る経緯

前回触れたように、12月19日に「本丸以外の防衛拠点を破却して堀を埋める」という条件のもと和睦が成立。豊臣方と徳川方で誓書の交換などが行われ、23日から徳川方によって堀を埋め立てる作業が始まります。

Fuyunojin3

責任者に本多正純、担当の奉行には松平忠明本多忠政本多康紀らが命じられ、徳川方諸大名はそれぞれの石高に応じて人夫を供出。昼夜兼行の突貫作業で、真田丸を始めとする防衛拠点、豊臣家臣の家屋敷、一般の家屋敷なども含め、手当たり次第に壊しては堀に投げ込んで、惣構(外堀)はあっという間に埋め立てられます。

惣構を埋め立てた徳川方は、さらに三の丸の堀も埋め立て始めます。これを見て、豊臣家筆頭家老の大野治長は正純に抗議します。なぜなら、「惣構の埋め立ては徳川方」、「三の丸より内側の堀の埋め立ては豊臣方」という役割分担になっていたから。

ところが抗議を受けた正純は、「惣構(一番外側の堀)ではなく、総構(全ての堀)を埋め立てろという命令を受けた筈だが、勘違いだったかも知れないから、家康に確認してくれ」とトボケ、その後は治長が会おうとしても、体調不良を理由に会おうともしませんでした。もちろん、その間に埋め立て作業は滞りなく進めます。

仕方がないので、治長は京都にいた家康に抗議しますが、「それは正純の勘違いだ。正純に抗議してくれ」などとマトモに取り合いません。もちろんこれは家康の嘘で、実際には「3歳の子供でも歩いていけるよう、全ての堀を埋めろ」という命令を出していました。治長としては、適当に言い訳して豊臣方担当の作業をなかなか進めないで、なるべく堀や防衛拠点を残そうと思っていたようですが、そんなことは全て家康に見透かされていた、という訳です。

治長が正純と家康にあしらわれている間に、突貫作業もはかどって、年が明けた慶長20(1615)年1月19日には、三の丸の堀、二の丸の堀の埋め立てが完了。大坂城は本丸と内堀の一部を残し、まさに「3歳の子供でも歩いていけるような」裸城となりました。

強引に、そしてあっという間に堀を埋められてしまったことで、ようやく豊臣家首脳陣は、家康の真意が和睦ではなく、大坂城を裸城にして再度攻めるのが目的だったことに気付きます。そして、このまま手をこまねいていたら、座して死を待つだけになってしまうので、壊された塀を直したり、埋め立てられた堀を掘り返したり、新たに牢人を召し抱えたりし始めます。

しかし、そんな動きはすぐに徳川方に露見。豊臣方の行為は和睦の条件に抵触するものだとして、3月24日に家康は豊臣方に対し、「秀頼が大坂を出て別の場所に領地替え」、「牢人衆を全て追放」、いずれかを選べと迫ります。ここから家康の行動はえらく迅速で、4月1日に近畿の諸大名に大坂城から逃げ出す者の捕縛を命じ、4日に九男徳川義直の婚儀に出る名目で駿府を出発、7日に諸大名に出陣命令を出しました。

対する豊臣方は、5日になって「領地替え」、「牢人衆追放」の件を断って臨戦態勢を整え始めるんですが、相変わらず内部分裂は甚だしく、9日に大野治長が弟大野治房の放った刺客に襲われます。治長は軽いケガで済んだものの、冬の陣で大して活躍もできず、和睦後は家康に良いようにあしらわれ、そして弟の刺客に襲われる、という不覚の連続で、発言権は徐々に弟の治房や治胤に移っていきます。

こんな感じで大坂夏の陣を迎えます。
では、続きは第五話で。

2006/10/31

大坂の陣・第三話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第三話です。
第一話は開戦までの経緯
第二話は大坂冬の陣の前半
について述べましたので、今回はその続きです。

大坂冬の陣・後半

前回触れたように、城外の防衛ラインが次々と崩されたため、豊臣方は大坂城の惣構(外堀)の中に撤退します。この際、鴫野の戦いで評判ガタ落ちとなった大野治長の弟、大野治房は、兄の不甲斐なさに憤慨して撤退に異を唱え、持ち場である船場の砦から離れようとしませんでした。困った治長は、治房を軍議に呼び出し、その隙に船場の砦を焼き払っちゃいました。豊臣方は内部分裂の兆しを見せ始めます。

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⑤真田丸の戦い

大坂城は西、北、東の三方は川を利用して外堀とし、周囲も湿地帯が多いため、攻めにくく守りやすい状況でした。しかし、南側は空堀があるだけで、そのまま平地につながっていたので、当初から守備面の不安が囁かれていました。そこで、真田幸村は南側に真田丸と呼ばれる出城を築き、大坂城最大の防衛拠点としました。

幸村はまず、真田丸前方にある篠山に兵を配置し、その南に布陣する前田利常に挑発攻撃を仕掛けます。しかし、挑発に乗った前田が篠山に進出すると、そこはすでにもぬけの殻。前田の動きを見て、素早く真田丸に戻っていた真田勢は、「鉄砲の音がするから何かと思ったら、前田家の方々ですか。イノシシ狩りでもやってんの?」などと嘲笑。怒り狂って前田が真田丸に向かってくると、鉄砲玉で散々にあしらいます。

そんな小競り合いの後、12月4日に徳川方は大坂城に総攻撃をかけます。この際、真田丸近辺が戦いの中心となったのですが、これは、豊臣方の南条元忠が徳川方に内通し、徳川方総攻撃とともに塀の一部を破壊すると約束していたから。しかし、南条の内通は豊臣方に露見し、すでに南条は切腹していました。豊臣方はこれを逆用し、南条がまだ生きているように装い、偽の矢文を徳川方に送ったりしつつ、破壊すると約束していた近辺に木村重成などを投入、総勢約25000で攻撃を待ち構えていました。

そうとは知らない徳川方は、汚名返上の意気上がる前田利常や、井伊直孝松平忠直など約25000が攻撃を開始。惣構の空堀まで進出した時、たまたま豊臣方の石川康長が火薬箱を落として爆発したのですが、これを南条の寝返りの合図と勘違いした徳川方は、さらに藤堂高虎などの7000を投入。ところがどっこい、南条の内通は露見していたので約束の場所はいつまで待っても破壊されず、徳川方は空堀の中で立ち往生してしまい、真田、木村らの鉄砲隊によって惨敗を喫しました。

⑥暫定的和睦へ

真田丸の戦いで惨敗を喫し、力攻めは不利と確信した家康は、方針を一転させます。それは、一旦和睦をして、その条件として本丸以外の防衛拠点を破却して、大坂城を裸城にしてから、タイミングを見計らって再度攻める、という方針。

家康は開戦直後から、何度か和睦の使者を送っていましたが、その条件は「秀頼が大坂城を退去して別の場所に領地替え」もしくは「淀殿が人質として江戸に来る」というもの。しかし、真田丸の戦いの後になると、上記の条件は取り下げて、「本丸以外の防衛拠点を破却して堀を埋める」という条件を出し始めます。

家康の態度が変わったのを見て、真田幸村後藤又兵衛らは真意を見抜き、絶対受け入れるべきではない、と豊臣家首脳陣に進言します。しかし、首脳陣は実戦経験も少ないので、彼らの杞憂を理解し得ません。そもそも、幸村や後藤ら牢人衆は首脳陣から軽んじられており、彼らの意見が通ることも少なく、不満を溜め込んでいました。

不満を溜め込んでいる牢人衆、大野治長大野治房の確執、淀殿の顔色を窺うだけの連中、徳川方のスパイだった織田有楽斉小幡景憲など、豊臣方は内部分裂に近い状況。それぞれの思惑が絡み合い、結局なかなか和睦に関する意見がまとまりません。

そうこうしてる内に季節も真冬、城外に布陣する徳川方の士気も下がってきたため、家康は攻勢を強めて和睦を急ぎます。12月9日からは毎晩3回の鉄砲連射、11日からは地下道の掘削、16日からは大砲攻撃を開始。すると、大砲の砲弾が淀殿のいた天守閣に命中し、近くにいた淀殿の侍女2人が死亡。これでヒステリックになった淀殿の鶴の一声で、19日に和睦の話がまとまりました。もちろん、家康の思惑通り「本丸以外の防衛拠点を破却して堀を埋める」という条件のもとで。

以上が大坂冬の陣の後半です。
では、続きは第四話で。

2006/10/24

大坂の陣・第二話

歴史上の戦いシリーズ第二弾、大坂の陣第二話です。
第一話は開戦までの経緯を述べましたので、今回から実際の戦いに触れていきます。

大坂冬の陣・前半

豊臣方は慶長19(1614)年10月頃から戦備を整え、真田幸村後藤又兵衛長宗我部盛親など牢人衆が入城。惣構(外堀の外に砦や柵を作り、防御態勢を固めました。
一方、徳川方は家康が10月11日に駿府を、23日に秀忠が江戸を出陣。他の大名たちもそれぞれ課せられた兵を率い、総勢20万を超える大軍で、11月上旬から徐々に大坂城を包囲。19日から両軍の戦端が開かれます。

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①木津川口の戦い

豊臣方は木津川口の砦を明石全登に守らせていましたが、その兵力が800弱であることを徳川方の蜂須賀至鎮が察知。蜂須賀は家康に攻略許可を求めたものの、家康は単独行動を許さず、池田忠雄浅野長晟と協力するなら、という条件つきで許可します。

蜂須賀は、家康が自分を見くびっていると不満を抱き、家康の軍師本多正信に相談。すると正信は「見て見ぬふりしてやるから好きにしろ」と言ったため、蜂須賀は池田や浅野との作戦を無視し、11月19日早朝に3000を率いて単独で抜け駆けします。

この時、守将の明石がたまたま大坂城本丸に出向いて不在だったこともあり、豊臣方は指揮系統も全く機能せずに敗退。ほとんど抵抗する間もなく砦を放棄しました。

②今福・鴫野の戦い

豊臣方は今福矢野正倫の600、鴫野井上頼継の2000を配置して7つの柵を作り、東側の防衛拠点としていました。対する徳川方は、今福に佐竹義宣の1500、鴫野に上杉景勝の5000が布陣。11月26日に家康から攻撃命令が下ると、あっという間に全ての柵を奪取し、矢野、井上は戦死しました。

これを受け、豊臣方は鴫野に大野治長の12000、今福に木村重成後藤又兵衛の3000が出陣して反撃を開始。治長は敵に勝る兵力で先鋒を崩したものの、遊軍に横を突かれ脆くも敗退。木村、後藤は、佐竹を壊滅寸前まで追い込みましたが、治長を蹴散らして手の空いた上杉が今福に加勢したため、戦況不利となる前に素早く退却しました。

豊臣方は結局撤退したものの、木村と後藤の奮戦ぶりと手際の良い進退は、快哉を湧き起こしました。特に木村は、初陣でありながら、歴戦の猛者後藤に劣らない活躍を見せたので、周囲から一目置かれるようになります。対照的に、豊臣家筆頭家老でありながら、あっさり敗れて全軍撤退の主因となった治長は、評判ガタ落ちとなります。

③博労淵の戦い

豊臣方は木津川口の砦と両翼をなす、博労淵の砦に薄田兼相を配置。しかし兵数は700程度で、それを知った蜂須賀至鎮家康に攻略許可を求めますが、家康は先日命令を無視した蜂須賀を信用せず、石川忠総浅野長晟の2300に攻撃命令を下しました。

11月29日早朝、石川と浅野が攻略に向かうと、蜂須賀は今回も命令を無視し3000を率いて攻撃に参加。しかし、蜂須賀が奮闘するまでも無く、博労淵の砦は簡単に落ちました。なぜなら、守将の薄田が遊女屋へ遊びに行ってたから。ふざけた話ですね。

これ以降、薄田は「橙武者」と蔑まれるようになります。橙は、見た目は色鮮やかだけど、食用には適さない果実。つまり、見た目ばっかりで役に立たない男、と白眼視された訳です。まあ、反論の余地はありませんな。

④福島の戦い

大坂の陣は、補給線の確保という意味で水軍の戦いもポイントでした。しかし、徳川水軍に比べ、豊臣水軍はあまりにも脆弱で、これをフォローするために、木津川口、博労淵に砦を築いたものの、いずれもあえなく陥落。

徳川方は両砦の攻略前から、九鬼守隆向井忠勝率いる水軍が、豊臣方の福島の船倉を中心に攻めていました。そして、両砦の陥落とともに11月29日に攻勢をかけます。

まあ、戦う前から結果は分かっていたようなもんですが、両砦からの援護も無くなったため、豊臣水軍は敵前逃亡に近い形で退却。ここに至り、大坂城外の戦略拠点はほぼ全てが徳川方の手に落ちました。

とりあえず、大坂冬の陣の前半はこんな感じです。
では、続きは第三話で。

2006/10/16

大坂の陣・第一話

え~、前回の川中島の戦い以来、半年ほどの沈黙を破りまして、「歴史上の戦いシリーズ」復活でございます。このシリーズ浮沈の鍵を握る、記念すべき第二弾は大坂の陣

Ohsakajou

俗に大坂冬の陣と呼ばれる慶長19(1614)年の戦いと、大坂夏の陣と呼ばれる慶長20(1615)年の戦いでございます。ちなみに、現在は「大阪」と表記しますが、当時は「大坂」と表記してたので、ここでは「大坂」という表記で統一します。

それではまず、この戦いに至る経緯に触れておきましょう。

豊臣秀吉の死後、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが起きました。結局、徳川家康率いる東軍が、石田三成率いる西軍を破りましたが、それで家康の天下になった訳ではありません。家康は豊臣家筆頭家老で豊臣秀頼の後見人で、秀頼を惑わせた侫臣を排除した、という立場に過ぎなかったんでね。まあ、あくまでも名目上のことですが。

関ヶ原において、福島正則黒田長政など豊臣恩顧の大名が東軍についた要因は2つ。1つは、三成たち文治派の人間と反りが合わなかったから。もう1つは、家康が秀頼の後見人の立場に留まって、悪いようにはしないと確約したから。それなのに、手の平を返すように秀頼をないがしろにして、徳川の天下確立へ邁進したら、豊臣恩顧の大名に反感を買っちゃうので、家康もすぐには手を出さず、地道に足元を固めていきました。

まずは関ヶ原の戦後処理として、秀頼の領地を削減。近畿地方の一大名という立場に落とし、将来的に武家ではなく公家として豊臣家を存続させようとします。豊臣家としては明らかに西軍に組していただけに、これを受け入れるしかありませんでした。

慶長8(1603)年になると、家康は征夷大将軍に就任。これで秀頼の後見人としてではなく、名実ともに天下人になりました。しかし、ここでも性急に豊臣家を潰そうとはせず、孫の千姫を秀頼に嫁がせるなど、むしろ懐柔する姿勢を貫きます。この婚姻もあって、「いずれ家康が秀頼に将軍職を譲るだろう」という楽観論が豊臣方に湧き起こるんですが、家康は将軍職を譲るつもりなど毛頭なかったようです。

将軍就任から2年経った慶長10(1605)年、家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲ります。将軍職は徳川家の世襲であり、豊臣政権は今後復活し得ない、とアピールした訳です。そして、秀忠の将軍就任式に、臣下という立場で秀頼が参加することを要請しますが、豊臣家はこれを拒否。ここから、家康は豊臣潰しを徐々に進めていきます。

まずは、秀吉を祀る神社の造営などを次々に要請し、豊臣家に貯えられた財産を浪費させます。そして、秀頼が家康もしくは秀忠に面会し、正式に臣下の礼をとることをたびたび要請。当初は拒み続けてきた豊臣家も、徳川家の天下が磐石なものになっていくにつれて、態度を軟化。慶長16(1611)年、秀頼は加藤清正浅野幸長らの護衛のもと、二条城へ出向いて家康と対面し、表面上は臣下の礼をとりました。

対面する前まで、家康は豊臣潰しを逡巡するところもあったようです。孫を嫁がせた縁もあるし、秀頼が素直に臣下になるんであれば、まあそれでも良いかという感じで。

しかし、秀頼と対面して、家康の気持ちは固まります。秀頼は、「猿」や「ハゲ鼠」などと揶揄された父秀吉には似ておらず、背は高く顔立ちは端正で、いかにも貴公子といった感じの18歳の青年でした。まあ、秀吉の種じゃないって説もありますからね。

すでに70歳を超えていた家康としては、自分亡き後、豊臣恩顧の大名がこの青年を担ぎ出したら、秀忠率いる徳川家が負けるかも知れない、と不安になった訳です。そして、自分の目が黒い内に豊臣を潰さなきゃいかん、と心に誓った訳です。

で、潰すと言っても、大義名分が無いと戦に持ち込めないので、豊臣家に謀反の兆しあり、という難癖をつけます。慶長19(1614)年7月に起きた方広寺鐘銘事件です。

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上の画像のとおり、豊臣家が造営した京都の方広寺の鐘には、「国家安康」、「君臣豊楽」という文字が記されています。ちなみにこれは現存してますが、この文言を「家康の名前を分断して呪っている」、「豊臣を君主として楽しむという不届きな文言」と曲解し、豊臣家の叛意の表れだとした訳です。そして、叛意が無いならそれを態度で示せということで、「淀殿が人質として江戸へ来る」、「秀頼が江戸へ参勤する」、「大坂城を退去して別の場所に領地替え」、この3つの内いずれかを選べと迫りました。

豊臣家としては、いずれも受け入れ難い条件だし、そもそも、事の発端が単なる言いがかり。当初は弁解をしたものの、家康が聞く耳を持たなかったため、徳川との決戦に踏み切ることになり、慶長19(1614)年11月に大坂冬の陣が始まりました。

という訳で、開戦までの経緯はこんな感じです。
では、続きは第二話で。

私の出資馬
現役勝ち上がり馬

  •  グレンツェント
     【牡4歳・12戦6勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ボシンシェ
      13011170122s
    5月20日の平安S(GⅢ)は10着。今回も58kgの斤量が影響したのか、良いところなく惨敗しました。
     
  •  ブライトエンブレム
     【牡5歳・10戦2勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ブラックエンブレム A_2012005_2
    16年5月8日の東京・ブリリアントS(OP)で7着となった後、しばらくして屈腱炎が判明したため休養しており、現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  ストロングタイタン
     【牡4歳・9戦4勝】
     父:Regal Ransom
     母:Titan Queen 13051160903
    2月19日の小倉・小倉大賞典(GⅢ)は5着。1番人気だったんですが、勝負処で前が詰まる場面もあり、上位には届きませんでした。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  フェイマスエンド
     【牡6歳・24戦5勝】
     父:シルクフェイマス
     母:シルキーウィズ 11062150321
    16年12月10日のチャレンジC(GⅢ)で13着となり、その後は放牧に出てましたが、骨瘤で歩様が悪くなり一旦トレセンに帰厩、再度立て直すことになり現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  ローズウィスパー
     【牝4歳・17戦3勝】
     父:ワークフォース
     母:ローザミスティカ
      13061170326
    5月6日のレースは7着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。6月11日の阪神9レースか、マーメイドS(GⅢ)に出走予定。
     
  •  モルジアナ
     【牝5歳・13戦4勝】
     父:Dubawi
     母:サマーハ 12024160326s
    16年9月11日のレース後、鼻出血と骨折で休養していましたが、現在はトレセンに戻って調整中。6月25日の阪神10レースに出走予定。
     
  •  アグレアーブル
     【牝4歳・5戦2勝】
     父:マンハッタンカフェ
     母:プリティカリーナ 13014160703500
    16年7月3日のレースで2勝目を獲得しましたが、その後は脚元に不安が出て休養に入っており、現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  デジタルフラッシュ
     【牡6歳・26戦2勝】
     父:アグネスデジタル
     母:マチカネベニツバキ 11031160904500
    4月23日のレースは6着。最後方から直線まずまずの脚を使って、まずまずの競馬を見せてくれました。5月27日の東京12レースに出走予定。
     
  •  オリエンタルダンス
     【牝5歳・20戦2勝】
     父:キングカメハメハ
     母:ダンスノワール 12027160326500
    4月15日のレースは3着。その後は放牧を挟んで新潟で出走予定でしたが、状態がイマイチで再調整することになりました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  ネームユアポイズン
     【牡3歳・3戦1勝】
     父:ハーツクライ
     母:リップスポイズン
      14005170325
    5月13日のレースは4着。終いジワジワと差は詰めましたが、上位争いには加われませんでした。
     
  •  イストワールファム
     【牝3歳・4戦1勝】
     父:ローエングリン
     母:ヒストリックレディ
      14030160128
    5月20日のレースは4着。スローでわりかし前が残る展開だったこともあって、伸び切れませんでした。
     
  •  ブルーヘヴン
     【牝3歳・5戦1勝】
     父:パイロ
     母:ローズカーニバル
      Blueheaven1
    5月7日のレースはビリッケツ。初めての芝で少しは違うとこを見せてくれるかと思ったんだけどねえ。現在は茨城県の牧場にいます。
     
  •  シンシアズブレス
     【牝4歳・11戦1勝】
     父:ダイワメジャー
     母:クラウンピース
      13037160305_3
    5月6日のレースは15着。最初から最後までなんにも良いとこがないまま後方に敗れました。5月28日の京都7レースに出走予定。
     

私の出資馬
現役未勝利馬

  •  キンナリー
     【牝3歳・1戦0勝】
     父:ディープブリランテ
     母:カラヴィンカ
     
  •  フィールザフォース
     【牡3歳・1戦0勝】
     父:ワークフォース
     母:シャンパンマリー
     
  •  ブライトクォーツ
     【牡3歳・7戦0勝】
     父:ワークフォース
     母:レースドール
     
  •  ストーミーワンダー
     【牡3歳・未出走】
     父:ストーミングホーム
     母:ラッシュウインド
     

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競走年齢未満の馬

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