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2006/03/22

川中島の戦い・第十話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第十話、いよいよ最終話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
第五話は八幡原の戦いの詳細
第六話は塩崎の戦い
第七話は謙信vs信玄一騎討ちについての考察
第八話は啄木鳥の戦法についての考察
第九話は山本勘助についての考察
に触れましたので、今回は最後の考察です。

結局、川中島の戦いの勝者はどちらなのか?

結論から言いますと、間違いなく武田信玄が勝者です。上杉謙信が好きな私としては忸怩たる思いですが、客観的に見るとこうなりますんで。

kenshin shingen  
上杉謙信(左)と武田信玄(右)

都合12年にわたる5回の戦いがあった訳ですが、それによって勢力範囲を多く獲得したのは信玄です。もちろん、北信地方を全て手にした訳ではありません。この城は上杉側、あの城は武田側、といった感じで、綺麗に境界線を引ける状況でもありませんしね。

もともとこの北信地方は、上杉の領地でもなければ、武田の領地でもありませんでした。村上義清などの小豪族が割拠していた地域です。それが両雄の対立という状況になったことから、小豪族たちも旗幟を鮮明にしなければなりませんでした。義清を始め小豪族のほとんどは、当初上杉側につきましたが、信玄の謀略の成果によって武田側につく豪族も少なくありませんでした。

で、5回の戦いが終わり、この地域にたくさんあった城のうち、武田側になった城と上杉側になった城をカウントしてみると、武田側の方が圧倒的に多く、結局勢力範囲が広いのは武田なのです。戦争というのは、その場の戦闘だけが勝ち負けの基準ではありません。最終的にどれだけ勢力範囲を広げたか、というのが一番のポイント。そういう観点で言うと、信玄の勝ちと断ぜざるを得ないのです。

ただし、信玄の目的が領地拡大であったのに対し、謙信は援助を求められたから出兵しただけで、領地拡大が目的ではありませんでした。この観点で考えると、信玄は北信地方全てを手に入れたかったのに、そこまではいかなかった。謙信は義理だけ果たせば良いので、まあおおむね目的は達したということになります。

しかしこれは曲解であってね、やはりどれだけ勢力範囲を広げるか、というのが戦国大名にとって一番重要な課題です。上記のような曲解をもってして、両者痛み分けと断じる学者たちは間違っていると思います。
八幡原の戦いに関しても、前半は謙信の勝ちで後半は信玄の勝ち、なんて中途半端な事を言う人が多いんですが、やはり信玄の勝ちと見るのが正しいでしょう。八幡原の戦いで、最終的に敗走したのは上杉軍ですし、勢力範囲を広げたのは武田軍なんだから。

このような訳で、川中島の戦いの勝者は間違いなく信玄です。ただし、僅かな領地を得るために費やした時間、労力といったことを考えると、決して有意義なことではありませんでした。両雄がこんな片田舎で決戦せずに、お互い上手いこと付き合ってれば、信長秀吉家康に天下を牛耳られることもなかったかも知れません。まあでも、謙信と信玄の二人で仲良く天下を治める、というのは無理だったでしょうけどね。考え方がまるっきり違うから。

え~、長いこと書き続けてきましたが、これをもちまして歴史上の戦いシリーズ第一弾川中島の戦いは終了です。
はあ…、マジで疲れた…。
第二弾はもっと簡潔にまとめたいと思います。

2006/03/14

川中島の戦い・第九話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第九話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
第五話は八幡原の戦いの詳細
第六話は塩崎の戦い
第七話は謙信vs信玄一騎討ちについての考察
第八話は啄木鳥の戦法についての考察
に触れましたので、今回は引き続き考察です。

山本勘助についての考察

kansuke
前回触れた「啄木鳥(キツツキ)の戦法」は、武田信玄の軍師である山本勘助が進言した、という説があります。年明けのドラマ「風林火山」でも、そうなってました。しかし、それは違うと思います。

なんせ、山本勘助が軍師だったという話は、「甲陽軍鑑」という武田側の書物にしか出てきません。そこでは上記のように啄木鳥の戦法を進言したことになってますが、彼はこの八幡原の戦いでしかスポットライトを浴びません。そして、啄木鳥の戦法が失敗したことに責任を感じ、乱戦の中に突っ込んでいって、討ち死にしたことになってます。表舞台に登場したと思ったら、すぐに死んじゃうのです。

本当に軍師だったとしたら、もっと他の戦闘や、内政、外交など、いろんな場面で登場する筈です。当然、上杉側の書物にも登場する筈です。それが、武田側のわずか1冊の書物にしか登場せず、その中でも、八幡原の戦いでしかクローズアップされないというのは、物凄く不自然です。いかにも取って付けたという感じです。

「甲陽軍鑑」以外で勘助の存在が確認できるのは、信玄が出した一通の書状。そこでは勘助は軍師ではなく、軍使と書かれています。おそらくこれが真実。勘助は軍議で意見を言うような立場には無く、単なる情報将校、あるいは諜報担当の忍びのような存在だったと思われます。「甲陽軍鑑」では、なぜそんな身分の低い者を軍師にまつりあげたんでしょうか?

多分、啄木鳥の戦法が失敗したから、信玄が立案したのではなく、違う人間が進言したという事にしたかったんでしょう。とは言え、有名な家臣のせいにするのも憚りがある。
そこで、軍使に過ぎなかった勘助を軍師ということにして、作戦失敗の責任を彼になすりつけたものと思われます。前にも書きましたが、歴史書というものは書き手に所縁のある人物を美化して書かれます。「甲陽軍鑑」における主役は信玄であり、その主役のミスや格好悪い場面は書き換えられて当然なのです。

まあそういう訳で、山本勘助という人物は軍師ではなく軍使に過ぎなかった、当然啄木鳥の戦法なんぞ進言しちゃいない、この作戦の立案者は信玄だった、というのが真相だと思います。

え~、毎回毎回長ったらしい文章を書き続けているので、いい加減飽き飽きしている諸兄も多いと思います。という訳で、次回で最終回にするつもりです。では、続きは第十話で。

2006/03/06

川中島の戦い・第八話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第八話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
第五話は八幡原の戦いの詳細
第六話は塩崎の戦い
第七話は謙信vs信玄一騎討ちについての考察
に触れましたので、今回は引き続き考察です。

啄木鳥の戦法についての考察

第五話で触れましたが、八幡原の戦いにおいて武田信玄は「啄木鳥(キツツキ)の戦法」を使いました。啄木鳥が木の中にいる虫を捕獲する際、巣穴の反対側をクチバシでコンコンと突き、驚いて外に出てきた虫を捕らえる習性にヒントを得た作戦です。妻女山に篭る上杉軍を武田軍奇襲隊が襲い、驚いて逃げてきた上杉軍を武田軍本隊が待ち伏せするという作戦。

ところが上杉謙信はこの作戦を察知、上杉軍は奇襲される前に武田軍本隊の前に布陣し、武田軍は甚大な被害を受けました。謙信が察知したきっかけは、夕飯時に武田陣営からたちのぼる炊煙が多かったから。夜間行軍をするために、いつもより多めに食糧を準備してたからです。

しかし、信玄ほどの策略家が、このようなイージーミスをするでしょうか?
夜間行軍のために食糧を多めに準備するのは当然ですが、普段より余分に用意しなければならないのは携行食糧。汁物を持っていく訳じゃないですし、米を炊く必要もありません。対陣中の食事は粗末なもので、米も普通に炊くのではなく、水に浸して柔らかくする程度だったり、生米を食べることだってあります。つまり、普段より炊煙を多くあげなくても、携行食糧は用意できるのです。信玄ほどの策略家なら、炊煙も普段通り、その他全てを普段通りにして、敵に察知されないよう気を配る筈です。

と言う事は、わざと炊煙を多く上げて、謙信に「これから夜襲するぞ」と、あえてアピールしたんだと思います。そうすれば、謙信が山を下りてくるのは必定。挟み撃ちにされる危険を回避するため、予備隊のいる善光寺方面へ移動するのも間違いない。そこで軽く横腹を突いて、上杉軍を善光寺方面へ押し出し、主力決戦を避ける、そういうシナリオのために、わざと炊煙を多く上げたんでしょう。

なぜこんな手の込んだことまでして、信玄は上杉軍との主力決戦を避けたかったのか。それは、信玄の戦略眼によるものでしょう。謙信は戦闘こそが唯一の道と考える人でしたが、信玄は外交や謀略と戦闘を並列的に考えていた人。まして、謙信は稀に見る強敵ですから、謙信との戦闘は、外交や謀略より下策と信玄は考えていた筈です。

さらに、八幡原の戦いの前年に今川義元が桶狭間で死んでおり、この頃から信玄の領土拡大意欲は、北信ではなく、東海に向かっていました。強敵謙信との消耗戦はなるべく避けて兵力や食糧を温存し、それを東海攻略に使いたかったのです。
武田軍が海津城にいて、上杉軍が妻女山にいて、膠着状態が続くのも厄介。かと言って主力決戦も避けたいところ。そこで考えたのが啄木鳥の戦法による局面の打開であり、それを謙信に察知させて、お互い小手調べ程度の戦闘に留め、正面衝突がないまま引き分けに持ち込みたい、それが信玄の本当の狙いだったんだと思います。

第三話、上野原の戦いでチラッと触れましたが、この時、信玄は山県昌景率いる別働隊を上杉軍の背後に回し、局面の打開を図りました。そしてこの時も、謙信は武田軍の動きをいち早く察知し、軍を動かしていますので、信玄は何かしらの方法であえて隙を見せたと思われます。
啄木鳥の戦法は、この作戦の応用だった可能性が高いので、炊煙をいつもより多く上げたのも、ミスではなく作戦の一環だったんでしょう。

しかし、信玄にとって誤算だったのは、上杉軍の動きが想像以上に早かったことと、武田軍の工作員が上杉軍に捕らえられ、上杉軍の動きが把握できなかったこと。
武田軍が進軍したのは9月10日の午前1時頃だったようですが、上杉軍は9日午後10時頃にはもう動いていたようです。信玄としては、上杉軍の動きに合わせて、奇襲隊と本隊で連携を取って対応するつもりだったんでしょうが、予想以上に早い上杉軍の動きを把握できなかったため、本隊のみが上杉軍の猛攻を受けるハメになった訳です。

最終的には両軍の主力決戦になったことから、謙信も信玄も主力決戦を望んでいた、啄木鳥の戦法もそのための作戦だった、という説が多いです。しかし、謙信に察知されるようあえて隙を見せた可能性が高いので、信玄は主力決戦を望んでなかったと思います。
まあいずれにしても、啄木鳥の戦法は失敗した、という事実だけは間違いないですね。

う~ん…、今回も長々となってしまったので、続きは第九話で。

2006/02/27

川中島の戦い・第七話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第七話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
第五話は八幡原の戦いの詳細
第六話は塩崎の戦い
に触れました。これで一通りの説明が終わりましたので、今回からは考察に入ります。

謙信vs信玄一騎討ちについての考察

第五話、八幡原の戦いで触れましたが、この時に上杉謙信武田信玄の一騎討ちがあったと言われています。しかし、歴史書によっては、その記述に違いがあります。斬り込んだのは謙信ではなく、謙信配下の荒川長安だった。軍配でそれを受けたのは信玄ではなく、信玄の影武者だった。というのが主な説です。

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歴史書というのは、当時の権力者の顔色を窺いながら書かれたり、書き手に所縁のある人物が美化されて書かれるものです。川中島の戦いを書いた歴史書はいろいろありますが、もちろん書いた人は上杉家の関係者や武田家の関係者です。上杉家の関係者が書いたものは謙信贔屓、武田家の関係者が書いたものは信玄贔屓になってます。

一概に分類できることではありませんが、上杉側の書物では、荒川が信玄に斬り込んだという説が多く、武田側の書物では、謙信が影武者に斬り込んだという説が多いです。なぜこうなるのでしょうか?

上杉側にとっては、斬り込んだ相手は影武者ではなく、信玄でなければいけませんでした。影武者だったとしたら、それは真の本陣に迫ったのではなく、偽の本陣に攻め込んだという醜態になるからです。
そして、斬り込んだのは謙信ではなく、身分の低い者でなければなりませんでした。大将たる者は本陣の奥深く控え、敵陣に斬り込むのは家臣がやることですからね。
このような訳で、上杉側の文書では荒川が信玄に斬り込んだ、という説が多いです。

一方武田側では、斬り込まれたのは影武者でなければいけませんでした。どんな事情があるにせよ、信玄本人がいる真の本陣を敵に襲われたとしたら、それはとんでもない屈辱になるからです。
そして、斬り込んだのは謙信でなければなりませんでした。真の本陣であれ偽の本陣であれ、身分が低かったり無名な人にそこまで斬り込まれたら情けないですからね。
このような訳で、武田側の文書では謙信が影武者に斬り込んだ、という説が多いです。

では、実際のところどうだったのでしょうか?
ここから先は完全に私の独断的な見解ですので、異論がある方も多々いると思いますが、構わずに進めます。

まず、斬り込まれたのは、信玄ではなく影武者だったと思います。
実際に影武者を複数従軍させて、本陣同様の幟を立てさせたりすることは、彼の常套手段でした。この戦いに限らず、ほとんどの戦いでそういう細工をしていました。
八幡原の戦いにおいて、味方不利となった瞬間に信玄本人は後退してた可能性が高いと思いますし、乱戦の中でいくつもある偽の本陣を見破って、信玄がいる真の本陣を突き止めるというのも、到底無理な話。
そして、一騎討ちを挑もうというような奇襲隊が目に入ったら、信玄ほどの策略家が何もしない訳はありません。影武者のいる偽の本陣に誘い込み、自分は安全地帯で高見の見物をしていた可能性が高いでしょう。

そして、斬り込んだのは謙信本人だったと思います。
第四話でチラッと触れましたが、唐沢山城の援軍に赴いた際に、僅か24人で敵の包囲網を突破したように、謙信はこういう奇襲作戦が得意でしたから。
それと、川中島の戦いの勝利がどこにあったのか、という点がこの謎を解く重要な鍵です。謙信は領地獲得が目的ではありません。そもそもは、北信地方の豪族に援助を頼まれたから出兵しただけですが、結局のところ武田軍の侵略を防がなければならなくなりました。
武田軍の侵略を防ぐ方法は、局地戦で勝つことではありません。本来だったら謀略や外交を駆使し、直接の戦闘以外の部分で攻略すべきなのですが、謙信はそういうことが嫌いな人でした。
となると、信玄本人の命を絶ち、武田家を壊滅的な状況に追い込む、そういう決定的な勝利しか、武田軍の侵略を防ぐ方法はないのです。そのためには、謙信自ら奇襲隊を率いて信玄を討つことも辞さなかった筈です。

という訳で、この一騎討ちは謙信vs影武者だったと思います。
謙信贔屓の私が、武田側の記述と同じ意見になるのは複雑な心境ですが、客観的に判断するとこうなるんで。

え~っと、他の考察にも触れたかったんですが、それは次回以降ということで。では、続きは第八話で

2006/02/20

川中島の戦い・第六話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第六話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
第五話は八幡原の戦いの詳細
に触れましたので、今回はその続きです。

第五次川中島・塩崎の戦い

八幡原の戦いの後、上杉謙信は関東平定、武田信玄今川義元亡き東海攻略に力を入れ始めます。しかし、信玄は常に策をめぐらす人物。謙信との直接対決を避けつつ、盟友の北条氏康と連携をとって、謙信を苦しめます。

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氏康が北関東に進出すると、信玄は①碓氷峠を越えて援軍を派遣。これに対し、謙信は②三国峠を越えて③厩橋を拠点に軍を展開。すると氏康は、なるべく主力決戦を避けつつ撤退し、その間に信玄は北信に進軍。これを聞いて謙信が本拠地④春日山城に戻り、北信進軍の姿勢を見せると、信玄は北信から撤退。すると再び氏康が北関東に進出、信玄も援軍を派遣する。仕方がないので、謙信は改めて関東に進軍する。

こうして、まるでモグラ叩きゲームのように、北関東と北信という2つの穴から顔を出したり引っ込めたりして、謙信の矛先を上手く避けて翻弄しつつ、勢力範囲をジワジワと拡大していきます。

この悪循環を断ち切るため、永禄7(1564)年5月、将軍足利義輝の斡旋で謙信は氏康と和睦。これを受けて信玄は別路線での謀略を練り、会津の芦名盛氏と同盟を結んで謙信に新たな敵を作ります。しかし、芦名にそれほど戦意がなかったことから、謙信は信玄との対戦に踏み切り、8月に川中島へ出陣しました。

これを受けて信玄も出陣し、両軍は⑤塩崎で対峙。しかし、八幡原の戦いで両軍ともに甚大な被害を出したこともあって、膠着状態になります。約2ヶ月間対峙しましたが、主力決戦には至らず、両軍は撤退。これが両雄最後の顔合わせとなりました。

その後の謙信は、氏康との和睦が破れたことから、再び関東平定に重点を置いて軍を展開しつつ、北陸平定にも乗り出します。一方の信玄は、東海攻略に重点を置き、将来の上洛に人生を傾けていくようになりました。

第一話から始まってえらい長々と書きましたが、以上が5回にわたる川中島の戦いの概略です。次回からは、この戦いの有名なエピソード等を考察したいと思います。では、続きは第七話で。

2006/02/14

川中島の戦い・第五話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第五話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
第四話は八幡原の戦いに至る経緯
に触れましたので、今回は八幡原の戦いの詳細です。

第四次川中島・八幡原の戦い(詳細)

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永禄3(1560)年秋、上杉謙信が関東へ出兵している隙を突いて、武田信玄は北信攻略に着手。①海津城を築いて高坂昌信に守らせ、対上杉の前線拠点としました。そして永禄4(1561)年6月には野尻湖南の割ヶ嶽城を攻略。ちなみにこの間、信玄は本拠地の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた・今の武田神社)にいて、北信攻略は家臣が担当していたようです。

謙信は小田原城包囲戦を切り上げたものの、追撃する北条氏康軍との戦いに手間取り、この時点ではまだ関東にいました。しかし、割ヶ嶽城陥落の報を受けて7月に春日山城に帰還、軍を再編成して8月には出陣します。8月14日、上杉軍は補給部隊中心の予備隊5000を②善光寺に配置、本隊13000はさらに進軍し、16日に、海津城を見下ろすことが出来る③妻女山に布陣しました。

これを受けて信玄は18日に躑躅ヶ崎館を出陣し、24日に④茶臼山に布陣。これにより、上杉軍本隊と予備隊の連絡線を断絶する形となりました。しかし、このままでは膠着状態に陥ることが懸念されたため、信玄は29日、海津城に移動して海津城待機組と合流。上杉軍本隊の退路を開くことで、局面の打開を図ります。

ところが謙信は妻女山から一歩も動かず、夜になると琵琶を奏でるなど、余裕の様子。そこで信玄は謙信を動かすため、「啄木鳥(キツツキ)の戦法」を使います。武田軍20000のうち、12000を高坂昌信に預けて奇襲隊とし、妻女山南方から上杉軍に奇襲をかけさせます。残り8000を信玄が率いて⑤八幡原で待ち構え、奇襲に驚いて山を下り、川中島に逃げてくる上杉軍の横腹を突いて、善光寺方面まで追い出す作戦です。

しかし、この作戦を謙信がいち早く察知します。夕飯時、武田陣営にたちのぼる炊煙がいつもより多いことに気付き、奇襲があることを確信。奇襲が行なわれる前に、妻女山を降りて川中島に布陣し、武田軍本隊と決戦することにしました。

こうして9月9日の夜、武田軍奇襲隊12000は海津城を出陣して妻女山南方へ、本隊8000は八幡原へ進軍します。上杉軍本隊13000はいつも通り篝火を焚き、まだ妻女山に軍勢がいると見せかけつつ、粛々と川中島へ移動しました。この日は霧が深かったこともありますし、上杉軍は武田軍の工作員17人を捕らえて殺害したため、武田軍は上杉軍の動きを察知できなかったようです。

明けて9月10日午前6時、奇襲隊が攻撃を仕掛ける時間になっても、妻女山からは何の物音も聞こえず、信玄は首を傾げていました。そして、霧が徐々に晴れるにつれて、驚くべき光景を目にします。八幡原に布陣した武田軍本隊8000の目の前に、上杉軍13000が待ち構えていたのです。ロクに準備もしていなかった武田軍に、精強の上杉軍が、得意の「車懸かりの陣」で襲い掛かり、戦場は大混乱となります。数字的にも状況的にも上杉軍に分があり、戦況は終始上杉軍が優勢。信玄の弟武田信繁、重臣諸角昌清も討ち死にするなど、武田軍は絶体絶命の状況に追い込まれます。

しかし午前10時頃、夜間行軍に手間取っていた武田軍奇襲隊12000がようやく八幡原に到着。これで上杉軍を挟み撃ちする形となり、形勢は逆転しました。上杉軍は徐々に退却を余儀なくされますが、そのさなか、謙信は僅かな供回りだけを連れて武田軍本陣に突入。自ら信玄に斬りかかり、信玄はそれを軍配で辛うじて避けた、という伝説的なエピソードがあり、八幡原古戦場にはその場面の像がありますが(下の写真)、真相は不明です。この件については、次回以降に検証します。
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最終的に上杉軍は善光寺方面へ敗走、予備隊と合流して越後へ退却しました。しかし、武田軍はこれを追撃するだけの余裕が無く、八幡原で勝ち鬨を上げて、翌日甲斐へ帰還。結局上杉軍が敗走したことにより、武田軍の勢力範囲は北信地方一帯に広がりました。ちなみに、この1日の戦闘で武田軍17000(全軍の85%)、上杉軍9400(全軍の72%)の死傷者を出したという説があります。これは歴史書恒例の大袈裟な表現だとは思いますが、まあとにかく大激戦だったことは間違いありません。

とりあえず、この第五話でご理解していただきたいのは、
啄木鳥の戦法を謙信が察知したため、武田軍は甚大な被害を受けた
武田軍奇襲隊が合流してからは形勢が逆転し、上杉軍が多大な被害を受けた
最終的に、武田家の勢力範囲が北信地方一帯に広がった
この3つです。では、続きは第六話で。

2006/02/06

川中島の戦い・第四話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第四話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
第三話は上野原の戦い
に触れましたので、今回はその続きです。

第四次川中島・八幡原の戦い(そこへ至るまでの経緯)

上野原の戦いの後、上杉謙信武田信玄の両雄に、今後を左右する転機が訪れます。まずは永禄2(1559)年4月、謙信は将軍足利義輝の要請により5000の兵を引き連れて上洛。義輝と対立していた三好長慶松永久秀らを牽制しました。そのあたりの功績も評価されたのか、謙信の元へ逃げていた関東管領上杉憲政の要請(謙信が関東管領に就任して上杉家を継ぐこと)を義輝が公認。関東平定、実際のところは北条氏康討伐の、大義名分を手に入れました。これにより、関東では氏康、北信では信玄、という両面作戦を強いられることになります。その氏康と信玄が同盟していたことから、謙信は両者の謀略に頭を悩ますことになる訳です。

一方、信玄にとっての転機は、永禄3(1560)年5月の桶狭間。三国同盟の一翼を担っていた東海の太守今川義元が、尾張の新興勢力織田信長の奇襲によって落命しました。義元が死んだとは言え、今川家そのものが消滅した訳ではないので、跡継ぎの今川氏真が武田家の盟者であることに変わりありません。しかし、氏真が凡愚なのは信玄とて百も承知。人質だった徳川家康に独立されるなど、実際に今川家はその勢力範囲を狭めつつありました。信玄としては、強豪謙信と戦って北信地方の僅かな領地を得ることよりも、屋台骨が崩れた今川家と戦って東海地方の広大な領地を得ることの方に、食指を動かされるようになった訳です。

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まあ、そんなこんながありまして、永禄3(1560)年8月に謙信は①沼田に出陣。②厩橋(今の前橋)まで進出すると、そこで関東管領寄りの諸豪族を集めて総勢約10万の軍勢を召集し、関東平定に乗り出します。その後のいきさつはいろいろありまして、③唐沢山城佐野昌綱が、氏康の長男北条氏政率いる3万の軍勢に囲まれたため、その援軍に赴いた際、謙信はわずか24人で包囲網を突破して城に入り佐野軍と合流、最終的には氏政勢を撃退したそうです。その他にも謙信のとんでもないエピソードは多々あるんですが、それは本題である川中島の戦いとは関係ないので、別の機会ということで。

で、永禄4(1561)年3月には北条軍を④小田原城まで追い詰めるんですが、その間、信玄は指をくわえて見ていた訳ではありません。盟友の氏康から、謙信の背後を脅かすよう要請されていたので、川中島近辺の確保に力を入れていました。謙信は小田原城を落とせないこともあり、武田軍が川中島に進出したという情報を得たこともあり、約1ヶ月で小田原城攻略を断念。包囲を解いて鎌倉の⑤鶴岡八幡宮に行き、そこで正式に関東管領に就任。名前も「長尾景虎」から「上杉政虎」に変えました。その後、「上杉輝虎」、「上杉謙信」と名前を変えていく訳ですが、いろいろ名前が変わるとややこしいので、第一話でおことわりしたように、ここでは「上杉謙信」で通します。

え~っと、前置きだけで結構な量になってしまったので、八幡原の戦いの詳細については次回に持ち越します。
とりあえず、この第四話でご理解していただきたいのは、
謙信は関東で氏康、北信で信玄、という両面作戦を強いられることになった
義元の死により、信玄の矛先は北信地方だけではなくなった
謙信は氏康を小田原まで追い詰めたものの、その間に信玄は着々と動いていた
この3つです。では、続きは第五話で。

2006/01/30

川中島の戦い・第三話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第三話です。

第一話は戦いへ至った経緯
第二話は布施の戦いと犀川の戦い
に触れましたので、今回はその続きです。

第三次川中島・上野原の戦い

前回触れた犀川の戦いの翌年に、上杉謙信は突如引退を宣言。剃髪し、本拠地である春日山城から出奔してしまいます。高野山へ向かう途中の謙信に家臣団が追い付き、復帰するよう懇願しますが、謙信は全く耳を貸さず、出家遁世の意思を翻そうとしませんでした。

この引退騒動の原因は、はっきり解明されていません。 家臣達が自分の思い通りに動かず、派閥争いに明け暮れていたこと。北信での武田信玄との戦いが未解決であること。関東管領上杉憲政北条氏康に追われて謙信の元に逃げ込み、関東征伐を催促していたこと。などなど、内政面、外交面ともに課題が山積みで、現実逃避したかったんじゃないか、というのが一番有力な説ですが、引退騒動を起こして、自分の存在価値を改めて家臣達に思い知らせたかったんじゃないか、というのも有力な説の一つです。

越後はもともと小豪族が割拠していくつかの派閥に分かれ、戦いを繰り返していた地域です。その中で、謙信の父長尾為景の勢力が大きくなり、謙信の代になって越後全域を統一しました。しかし、統一とは言っても、小豪族連合軍の盟主といった存在。厳密な主従関係ではなかったので、全ての豪族が謙信に心服してた訳ではありません。前回触れた北条(きたじょう)高広はその後も謀反を起こしてますし、彼以外にも謀反を起こす豪族が後を絶ちませんでした。そういう内情を知り尽くして、信玄はあらゆる謀略をめぐらます。

謙信引退騒動を知った信玄は、上杉家の財政担当だった大熊朝秀に謀反を起こさせます。謙信というカリスマがいたからこそ、辛うじて1つにまとまっていた越後に、再び風雲が生じ始めました。これをまとめ得る存在は謙信しかいない、と判断した家臣団は、謙信に事の次第を告げて改めて復帰を懇願。謙信はこれに応えて復帰、大熊を征伐しました。ちなみに、大熊は信玄の元へ逃げ、その後は終生武田家に仕えたそうです。

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前置きが長くなりましたが、犀川の戦い以降に上記のような経緯があり、上野原の戦いを迎えます。弘治3(1557)年2月、雪によって謙信が出兵できない隙を突いて、信玄は馬場信春真田幸隆①葛山城を攻略させ、これを落とします。犀川の戦いの後に、「犀川以北は上杉領」という話になったのですが、信玄はこの盟約を実力行使で破棄した訳です。

その後、武田軍は葛山城攻略の勢いを駆って、②飯山まで進出。謙信は雪解けを待って4月に出陣し、③善光寺まで進撃。武田軍は撤退して信玄率いる本隊と小諸で合流、上杉軍も一旦飯山まで退きます。これは、武田軍を善光寺付近に誘い出して邀撃する策だったようですが、信玄はその策を見抜き、結局動きませんでした。動かない武田軍に焦れた謙信は、5月に④坂城(さかき)まで進軍。ここで戦いは膠着状態になります。

7月になって、信玄は山県昌景率いる別働隊に、間道を通って謙信の背後を襲うよう命じます。この動きを察した謙信は、挟み撃ちにされる危険を避けるため、坂城から撤退。これを武田軍本隊が追撃し、8月に⑤上野原で両軍の主力決戦が行なわれたようです。

しかし残念ながら、この両雄最初の主力決戦の具体的な内容は、歴史書に記述されておらず、簡単な結果しか記されていません。それによると、両軍ともに多大な被害が出て戦闘の継続が不能になり、痛み分けという感じでお互い撤退したそうです。しかし、信玄は常に最善の策をきっちり施す人なので、小山田信茂の一隊を戦場に残し、善光寺一帯を支配下に収めました。

とりあえず、この第三話でご理解していただきたいのは、
謙信の家臣団は一枚岩ではなく、常に謀反を心配しなければならなかった
犀川の戦いの後に締結された盟約が、信玄によって破られた
最終的に、武田軍の勢力範囲が善光寺付近まで広がった
この3つですかね。では続きは第四話で。

2006/01/23

川中島の戦い・第二話

歴史上の戦いシリーズ第一弾、川中島の戦い第二話です。
第一話では、戦いへ至った経緯を中心に述べましたが、今回から実際の戦いをおおまかに触れていこうと思います。

第一次川中島・布施の戦い

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天文22(1553)年に起きた、両雄最初の戦闘です。この年の4月、村上義清の領する①葛尾城武田信玄によって落とされます。義清は②塩田城に籠城し、上杉謙信に援軍を要請(籠城せず自ら謙信の元へ赴いたという説もあり)。謙信と義清は領地問題で多少揉めていたものの、義清と同盟関係にある高梨政頼が謙信と縁続きであったこと、信玄の侵略を食い止めたいということ、などの理由により謙信自ら援軍に赴きました。上杉軍は③姥捨山北麓に布陣し、間もなく葛尾城を回復。武田軍は塩田城を包囲していましたが、上杉軍との正面衝突を避けるべく撤退。上杉軍も程無くして越後に帰還しました。

8月になると、信玄は電光石火の勢いで、葛尾城、塩田城をはじめ北信勢の城16ヶ所をわずか1日で奪取(これは歴史書恒例の大袈裟な表現だと思うんで、実際には少なくとも3~4日要したでしょう)。そして義清を追い散らした勢いそのままに、川中島へ進出しました。これを受けて謙信は義清以下を従えて急遽出陣し、両軍は④布施のあたりで対峙。信玄の寵臣高坂昌信率いる一隊が上杉軍に挑みかかったものの、義清・政頼などの北信勢が奮闘。武田軍は塩田城まで退き、上杉軍は⑤荒砥城など武田勢の城を数ヶ所落としました。この後はお互い様子見になり、9月末に両軍主力は撤退。荒砥城・葛尾城近辺が両軍の境界線といった感じになりました。

第二次川中島・犀川の戦い

天文23(1554)年、信玄・北条氏康今川義元の間でいわゆる甲相駿三国同盟が成立。背後を固め、北信攻略に専念できるようになった信玄は、まず謀略で揺さぶりをかけるべく、謙信の配下北条(きたじょう)高広に謀反を起こさせます。謙信は間もなくこの反乱を鎮圧。高広の罪を許し、本領も安堵するという甘い処分で済ませたんですが、それはこの謀反の仕掛人が信玄であることを知っていたから。この一件で、謙信は今後最大のライバルが信玄であることを確信したことでしょう。

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そして弘治元(1555)年4月、信玄と雌雄を決するべく、謙信は①善光寺北に出陣。これを受けて信玄は②大塚に布陣するとともに、善光寺別当の一人栗田鶴寿を味方につけて、別働隊を③旭山城に配置。謙信は旭山城に対する押さえとして④葛山城を築き、軍を二手に分けて一軍を旭山城対策に配置、本隊は大塚の対岸へ向けました。

しかしそこからは両軍の睨み合いが続き、大きな戦闘は起きませんでした。約200日にわたって膠着状態が続いたことから、両軍の士気低下は甚だしく、謙信は配下に誓詞を提出させるなど改めて忠誠を誓わせ、信玄はまだ領有していない地域の空手形を出すなど、お互いかなり苦心したようです。

結局、閏10月に今川義元の仲介によって両者は和睦。この際、⑤犀川以北が上杉、⑥千曲川以南が武田の領地という境界線が明示され、2つの川に挟まれた川中島は緩衝地帯となりました。また、旭山城は上杉の領地に入ってしまうことから、破却されました。

とりあえず、この第二話でご理解していただきたいのは、
北信の豪族vs信玄という構図が、謙信vs信玄に変わった
甲相駿三国同盟により信玄の北信攻略が本格化した
犀川以北が上杉、千曲川以南が武田という境界線が明示された
以上の3つです。では、続きは第三話で。

2006/01/16

川中島の戦い・第一話

今回から始まる歴史上の戦いシリーズ、第一弾は川中島の戦いです。

まずは基礎知識から。
「川中島の戦い」というのは、上杉謙信武田信玄による、北信地方の覇権をめぐる戦いの総称であって、1度の戦闘を称したものではありません。一番有名なのは、謙信と信玄の一騎討ちがあったとされる、永禄4(1561)年に行なわれた「八幡原の戦い」ですが、その他に何度も同じ地域で両者が対峙したので、それら全てをひっくるめて「川中島の戦い」と言います。実際に何回対戦したのかは不明で、「八幡原の戦い」1回だけだったという説から、全12回あったという説までありますが、基本的には全5回とカウントされるのがセオリーです。

その5回というのは、以下の通り。
天文22(1553)年 布施の戦い
弘治元(1555)年 犀川の戦い
弘治3(1557)年 上野原の戦い
永禄4(1561)年 八幡原の戦い
永禄7(1564)年 塩崎の戦い
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このうち、本格的な戦闘に至ったのはだけで、他の3回は多少の小競り合いがあったものの、両軍主力の正面衝突といったところまではいきませんでした。とは言え、それぞれに出兵の意義、そして必然的に両軍の対峙という結果になったことから、この3回も含めて全5回という解釈になる訳です。

では、なぜ謙信と信玄が、何度も戦うハメになったのか、その経緯に触れておきましょう。
当時、謙信は今の新潟県を、信玄は今の山梨県と長野県の大半を勢力範囲としていました。両者の緩衝地帯的な存在と言うか、どちらの勢力範囲でもなかったのが、今の長野市あたりを中心とした北信地方。そこには、村上義清高梨政頼などの小豪族が割拠していて、反武田の姿勢を貫いていました。天文19(1550)年の「戸石崩れ」と呼ばれる武田軍の壊滅的敗戦は、義清にとって最大の武功で、かつては武田家を脅かす存在だったのですが、徐々に版図を狭められて風前の灯という状況でした。

彼らは自らの本拠地も武田軍に侵略されたため、謙信に援助を依頼。これを謙信が請けたため、両雄の激突に至りました。まあここまでの話だと、分かりやすいと言うか、方程式通りの成り行きといった感じです。

しかし、そもそもなぜ信玄はこの地域に執着したのでしょうか?
信玄が領していた地域は、決して肥沃な土地ではありませんでした。現在では、山梨はワインの栽培が盛んですが、当時はそんな産業は無いですしね。それと、海に面していないため、塩が作れないというのも大きな問題でした。これはのちに「敵に塩を送る」という謙信の美談につながる訳ですが、実際のところ、謙信が信玄に塩を送ったという訳ではありません。今川家と北条家が、武田家に対して経済封鎖をした時に、謙信は経済封鎖をしなかっただけのことです。

話が横道に逸れかけたので、元に戻しましょう。信玄の領地には金山がいくつもあって、それが武田家の資金源になってました。しかし上記のように、米や塩など食糧の自給が困難だったのは間違いないところで、これは戦国大名にとって致命的とも言える問題。もうちょっと後の時代になって兵農分離が確立されてくると、それほど大きな問題にはなりませんが、この当時はまだまだそういう状況ではありません。したがいまして、信玄としては領地拡大による食糧の安定確保が急務であった訳です。

で、領地拡大をするにあたっての問題点は、侵略できる地域が限られていたこと。信玄の領地から見て東は北条氏康、南は今川義元という大勢力が存在。両者とは「布施の戦い」の後に三国同盟を締結したこともあり、侵略は不可能。西は飛騨山脈に阻まれているため、侵略はほぼ不可能ですし、山越えして侵略しても領土の保全は困難。しかし北は、前述のように村上、高梨などの小豪族が割拠する地帯でして、当時の信玄にとって唯一侵略可能だったのが、北信地方だったんですね。

第一話なのでサラッと済ますつもりが長々となっていますが、大事なことはただ一つ。この戦いは北信地方の覇権争いなんですが、両者の目的は全く違います。信玄は、上記のように領地拡大が目的。ところが謙信は、知り合いに援助を求められたから手を差しのべただけで、領地拡大という意識はありませんでした。実際に、一時的に北信地方を手にした際、その領地を村上義清など、元の領主に渡してますからね。

この目的意識の違いが、戦いを長引かせた、何度も何度も戦うハメになった原因の一つです。また、この戦いの勝者は結局どっちだったのかという話になった時に、学者の中で見解が分かれてしまうのも、この目的意識の違いがもたらすものです。

とりあえず、この第一話でご理解していただきたいのは、
川中島の戦いとは、複数回の戦闘の総称である
謙信と信玄では、この戦いの目的意識が全く違う
この2つです。

あと、ここで書くことは私の独断的な見解であり、通説とは違う部分も多々あります。
それから、人名は一番有名な名前(上杉謙信とか武田信玄)で表記しますので、当時の実際の名前(長尾景虎とか武田晴信)とは違う場合もあります。
以上、ご承知おきください。では、続きは第二話で。

私の出資馬
現役勝ち上がり馬

  •  グレンツェント
     【牡4歳・12戦6勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ボシンシェ
      13011170122s
    5月20日の平安S(GⅢ)は10着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。11月5日の京都・みやこS(GⅢ)に出走予定。
     
  •  ブライトエンブレム
     【牡5歳・10戦2勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ブラックエンブレム A_2012005_2
    16年5月8日の東京・ブリリアントS(OP)で7着となった後、屈腱炎で休養していましたが、現在はトレセンに戻って調整中。
     
  •  ストロングタイタン
     【牡4歳・12戦5勝】
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     母:Titan Queen 13051170715c
    10月15日の東京・オクトーバーS(OP)は2着。早めに抜け出して勝ったと思ったんだけど、ハナ差で1番人気に差されちゃいました。
     
  •  フェイマスエンド
     【牡6歳・26戦5勝】
     父:シルクフェイマス
     母:シルキーウィズ 11062150321
    8月6日の小倉・小倉記念(GⅢ)は7着。中団から終いまずまずの伸びを見せ、タイタンには先着してくれました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
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     【牝5歳・16戦4勝】
     父:Dubawi
     母:サマーハ 12024160326s
    10月15日のレースは3着。後方から大外一気で追い込んで、久々に良いとこ見せてくれました。
     
  •  イストワールファム
     【牝3歳・5戦2勝】
     父:ローエングリン
     母:ヒストリックレディ
    14030170820500
    8月20日のレースで大外一気を決めて2勝目を獲得。1番人気に応えて力の違いを見せ付けてくれました。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ローズウィスパー
     【牝4歳・19戦3勝】
     父:ワークフォース
     母:ローザミスティカ
      13061170326
    9月17日のレースはビリッケツ。その後に左前繋靭帯炎を発症したため休養に入りました。現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  デジタルフラッシュ
     【牡6歳・28戦2勝】
     父:アグネスデジタル
     母:マチカネベニツバキ 11031160904500
    10月14日のレースは4着。勝ち負けには加われなかったけど、ジワジワ伸びてマズマズの競馬でした。
     
  •  アグレアーブル
     【牝4歳・5戦2勝】
     父:マンハッタンカフェ
     母:プリティカリーナ 13014160703500
    16年7月3日のレースで2勝目を獲得後、脚元に不安が出て休養に入っていましたが、現在はトレセンに戻って調整中。10月28日の東京8レースに出走予定。
     
  •  オリエンタルダンス
     【牝5歳・21戦2勝】
     父:キングカメハメハ
     母:ダンスノワール 12027160326500
    10月15日のレースは7着。この馬なりに逃げ粘ってくれて、着順ほど悪い内容ではなかったですな。
     
  •  アーモンドアイ
     【牝2歳・2戦1勝】
     父:ロードカナロア
     母:フサイチパンドラ
      D_02680135
    10月8日のレースで初勝利。単勝1.2倍の圧倒的1番人気に応え、余裕綽々の競馬で3馬身半差の圧勝でした。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ネームユアポイズン
     【セン3歳・4戦1勝】
     父:ハーツクライ
     母:リップスポイズン
      14005170325
    7月15日のレースは5着。後方から捲り気味に追い込んできたんですが、上位には届きませんでした。その後に去勢し、現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ブルーヘヴン
     【牝3歳・10戦1勝】
     父:パイロ
     母:ローズカーニバル
    Blueheaven1
    10月15日のレースは13着。嫌気が差したか付いていけなかったか、最後方からの競馬で流れ込んだだけでした。
     
  •  シンシアズブレス
     【牝4歳・16戦1勝】
     父:ダイワメジャー
     母:クラウンピース
      13037160305_3
    8月27日のレースは7着。その後は放牧を挟んでゲート再審査に合格し、現在は滋賀県の牧場にいます。
     

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  •  キンナリー
     【牝3歳・3戦0勝】
     父:ディープブリランテ
     母:カラヴィンカ
     
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     父:ワークフォース
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     【牡2歳・未出走】
     父:ハービンジャー
     母:ツルマルワンピース
     
  •  オルボンディール
     【牝2歳・2戦0勝】
     父:ステイゴールド
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     【牝2歳・2戦0勝】
     父:クロフネ
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     【牡2歳・3戦0勝】
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     【牡2歳・1戦0勝】
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