2008/12/23

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第五話

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去、翌年には五大老の1人である前田利家も死去し、五大老筆頭である徳川家康が天下獲りに乗り出しました。

石田三成を失脚させたことで、家康は政務のほとんど独占するようになり、三成は挙兵を決意。それと知った家康は、隙を見せて三成に事を起こさせるため、まずは利家の息子前田利長に謀反の疑いをかけ、自ら討伐に出向こうとしました。

しかし、前田家は利家の嫁まつを人質として家康に差し出して恭順。そこで家康は上杉家をターゲットにします。この頃、上杉景勝直江兼続は領国の会津に戻っており、家康と対抗することも考慮しつつ秘かに軍備を整えていました。これが豊臣政権に対する叛意のあらわれだとして、家康は詰問状を送ります。これに対し、上杉側から回答された文書が、兼続が書いたと言われている「直江状」です。その内容に関しては、かつてここで兼続のことを書いた時に触れてますので、こちらをご参照のこと。

で、家康は約10万(諸説あり)の兵力で上杉討伐に向かうんですが、これはあくまでも三成に挙兵させるため京阪を手薄にするフェイント。家康は強敵上杉家とマトモに戦う気はなく、三成が挙兵したらとっとと反転して、三成を討つつもりでした。

では上杉家はどう考えていたのか。これが難しい。一般的には、兼続と三成の間で密約があって、東西から家康を挟撃しようという作戦があった、という説が有力ですけどね、会津と近江で挙兵して挟撃って、あまりにも雑な作戦で、現実味に乏しい。

こんだけ離れてて、今みたいな通信状況も整ってない中で、共同作戦なんて厳しいよ。それに、東西から侵攻して家康を挟撃にするにしては、上杉軍の総兵力が4万弱ぐらいじゃ少ないでしょ。そもそも、背後に伊達政宗最上義光と稀代の謀将が2人もいて、上杉軍はそれを無視して西進するのは難しいんだから、何を置いても真っ先にこの2人を味方につけるべきなのに、そういう交渉をした感じもない。

それやこれやを考慮して、私は兼続と三成の密約説には否定的です。上杉家は基本的に単独で家康との決戦を覚悟してたんだと思うし、秘かに手を組んでたと言われる佐竹義宣の戦力も、遊軍程度にしか考えてなかったんだと思ってます。

で、実際には東軍先鋒が宇都宮付近まで進出、上杉軍は伊達・最上に対して抑えの軍を残し、白河付近まで進出。鬼怒川を挟んでどちらか側が戦場になるという感じでしたが、このタイミングで三成が挙兵。家康は小山で軍議を開き、息子結城秀康らを上杉対策に残して、あとは反転して三成討伐の準備を始めました。

この際、反転した東軍を追撃するよう兼続が進言したのに、景勝は受け入れなかった、と言われてるんですが、これも密約説から派生した話のようで、兼続がそんな進言するとは思えない。前述の通り、伊達・最上が背後にいる以上、上杉軍は全力での追撃は無理。家康も一気に関ヶ原まで行くつもりはなく、福島正則黒田長政らを先に行かせて徳川軍本隊は江戸に待機する予定で、もし上杉軍が追撃して秀康隊を蹴散らしたとしても迎撃する態勢はとれた。この状況で追撃したって戦果は上がらんよ。

結局上杉軍は追撃せず、反転して伊達・最上に狙いを変えましたが、政宗はその場しのぎの和睦を申し出たため、最上攻略に向かいます。兼続は約3万の軍を率いて進撃し、いくつかの城を落としたものの、最上軍の抵抗も激しく、戦いは膠着状態に。

そんな中、西軍が関ヶ原で負けたという情報が届き、兼続は撤退することになります。撤退するとなった途端、最上軍だけでなく、政宗が和睦を破って伊達軍も追撃に参加したため、上杉軍はかなりしんどい状況に陥りました。しかし、前田慶次などの奮戦もあって、のちに家康から褒められたほど、兼続は見事な采配をしたそうです。

戦後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されます。上杉家は家臣を減らさない方針をとったため、財政は逼迫。そこで兼続は、倹約を旨として、殖産興業、インフラの整備などに力を入れ、農業のテキスト「四季農戒書」を著すなどして、財政の立て直しを図りました。ちなみに、のちに米沢藩主となって藩財政を立て直した上杉鷹山は、兼続の施策を大いに参考にしたそうな。

徳川政権下では、謙信以来の武門の家という評価は高く、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では今福鴫野の戦いで活躍、翌年の夏の陣では京都の警備を担当しました。大坂の陣に関しては、かつてここで書いてますので、詳しくはこちらをご参照のこと。

その後、兼続は元和5(1619)年に、景勝は元和9(1623)年に死去。跡継ぎがなく直江家は断絶しましたが、上杉家は紆余曲折がありつつ脈々と続いています。

これで一通り、年表をなぞることはできましたかね。あとは人物像を書こうかとも思ったんですが、そのあたりは大河ドラマにお任せしましょう。私の意にそぐわないようだったら、その都度ここで突っ込むことにしたいと思います。

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2008/12/16

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第四話

天正8(1580)年、御館の乱に勝利し、名実ともに上杉謙信の跡継ぎとなった上杉景勝ですが、課題は山積みでした。

2年に及ぶ内乱の中で、能登や越中は柴田勝家率いる織田軍に侵食され、会津の蘆名盛氏も国境付近を侵略し、武田勝頼との同盟の代償として上野の領地の一部を献上。関東攻略の現場監督的な存在だった北条(きたじょう)高広上杉景虎側についた影響もあって、関東は北条氏政の支配が強くなり、領土という意味では、越後一国に押し込められる形となってしまいました。

そして当然のことながら、内乱によって上杉家の戦力は大幅に減少。さらに、戦後の論功行賞で不満が続出。前回触れたように、新発田重家の不満を抑え切れないことに責任を感じた安田顕元が自害し、重家が織田信長の誘いを受けて謀反、直江信綱が恩賞争いに巻き込まれて殺害される。まさに内憂外患といった感じで、新生上杉家はどん底からのスタートだった訳です。

そんな中で頭角を現し始めたのが、直江兼続です。直江家を相続し、上杉家の執政という立場になったことで、景勝も兼続を重用します。若手が突然重用されたことに対しては批判も大きく、景勝と同じく謙信の養子だった上条政繁が出奔してしまうなど、新体制は決してスムーズに進んだ訳ではありませんが、兼続は地道に功を重ねて信頼を集めるようになりました。

上杉家に転機が訪れたのは、天正10(1582)年。同盟相手の武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされ、そのまま織田家が武田家の旧領を支配したため、関東からは滝川一益、信濃からは森長可、そして越中からは柴田勝家と、三方から織田家の圧迫を受けるという、危機的状況に追い込まれます。ところがどっこい、その約3ヶ月後、信長が本能寺の変で死亡。滝川・森は逃げるように旧領へ帰還し、勝家も抑えの軍を残す程度で攻勢を一気に弱めたため、突然周囲が空き地のような状況になります。

しかし、そこで領土拡大ができるような余力は上杉家にはなく、徳川や北条が火事場泥棒をするのを、多少牽制する程度のことしかできませんでした。でもまあこれが、「上杉家は謙信以来、義に篤い」という評価につながる部分もあり、のちの天下人豊臣秀吉に厚遇される一因ともなりました。

その秀吉との交流は、秀吉が勝家と覇権争いをした賤ヶ岳の戦いの前に始まります。天正11(1583)年、秀吉は上杉家に勝家の背後を突くよう依頼、景勝はこれを受け入れたものの、重家の謀反への対処や、信濃に侵攻してきた北条への対処などに忙殺され、結局は秀吉の依頼に応えることはできませんでした。しかし、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは、越中の佐々成政に圧力をかけて秀吉の期待に応え、秀吉の信頼を得ていきます。

豊臣政権下において、景勝は五大老の1人に任じられて重きをなしました。また、兼続も秀吉の目に止まって、天正16(1588)年には豊臣の姓を授けられるなど厚遇され、毛利家の小早川隆景、伊達家の片倉景綱と並んで、「天下の三陪臣」と称されるようになります。

その後、小田原北条攻め、朝鮮出兵などで上杉家は武功を挙げ、慶長3年(1598年)に越後から会津120万石に加増転封されました。その際に秀吉は「120万石のうち30万石は兼続の分だからな」と言ったそうです。それぐらい兼続が秀吉から高い評価を得ていたということなんですな。

ただしこれは、大名の家臣のうち有能な人物を桁外れに厚遇して、その大名との仲を引き裂くという、秀吉の常套手段でもありまして、秀吉は同じようなことを他にもよく仕掛けました。小早川と片倉に対する厚遇や、かつてここでチラッと触れましたが大友家の立花宗茂に対する厚遇、徳川家康の元から石川数正を引き抜いたのなんかは、その代表例でしょうな。まあしかし景勝と兼続の場合は絆が固く、秀吉の思い通りにはなりませんでした。

そしてこの年の8月、秀吉が死去し、2年後には関ヶ原の戦いが勃発する訳ですが、そのあたりの話は次回にしましょうかね。

では、続きは第五話で。

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2008/12/08

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第三話

天正6(1578)年、上杉謙信が急死し、その跡目をめぐって養子の上杉景勝上杉景虎が対立、のちに御館の乱と呼ばれるお家騒動が起きました。

先手を取ったのは景勝でした。謙信の死後すぐに春日山城の本丸を占拠し、自分が後継者であると宣言。三の丸にいた景虎を攻撃し、これを支えきれなくなった景虎は、春日山城から撤退します。そして、自分の後見人的な存在になっていた元関東管領上杉憲政の居館、御館を本拠地として景勝に対抗しました。

この間、両者は味方を集めるための工作にも奔走。景勝は、のちに直江兼続となる樋口兼続などの上田衆を筆頭に、自分と同じく謙信の養子である上条政繁山浦景国や、斉藤朝信河田長親など謙信股肱の家臣、本庄繁長新発田長敦など揚北衆と呼ばれる下越地方の領主を取り込みます。

一方景虎は、元関東管領上杉憲政を後ろ盾とし、上田衆と対立していた上杉景信などの長尾一族、繁長や長敦と対立していた鮎川盛長黒川清実などの揚北衆、厩橋城主で謙信の関東攻略の現場監督的な存在だった北条(きたじょう)高広、さらには景虎の実兄である北条氏政、北条家と同盟関係にあった武田勝頼、そして会津の蘆名盛氏など、かなりのビッグネームを揃えました。

越後一帯で両派閥に分かれての抗争が始まり、おおむね一進一退という状況になったため、注目は大勢力の氏政と勝頼の動向。氏政は同士討ちで弱ったところを衝いてやるかという感じで、参戦する気はあまりなかったんですが、勝頼はこれに乗じて越後を乗っ取ってやれって勢いで、いとこの武田信豊を大将に約2万の軍を信越国境に派遣します。

武田軍が来るってことで、形勢は景虎方に傾き、このままでは不利と悟った兼続は、景勝に勝頼との同盟を提案、景勝はこれを承諾して交渉に入りました。勝頼は、長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた後で、兵力も財政力も厳しい状況にあり、また氏政が動く気がないこともあって、この同盟を受け入れました。条件として景勝は多額の金と領地の一部を献上、勝頼は妹を景勝の嫁に差し出しました。

武田軍が撤退したため、氏政は重い腰を上げ、弟の北条氏照北条氏邦らを関越国境に派遣。しかし、景勝側は上田衆の本拠地である坂戸城を死守し、景勝と同盟を結んだ勝頼も北条軍を牽制する動きを見せたため、北条軍は乱の中心である春日山城や御館には全く近付けませんでした。結局、北条軍は抑えの軍勢を国境に残して撤退。

こうして武田も北条も景虎の援軍には来ないという状況になり、景虎側は一気に旗色が悪くなりました。景勝側に寝返る者もチラホラ出てくるし、和睦交渉に赴いた上杉憲政は殺されるし、といった塩梅。乱の勃発から約1年後、景虎は御館から脱出し、鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、城主が景勝側に寝返ったため、自害しました。

景虎の死後も、越後を二分した争いはなかなか収拾が付かず、何とか片付いたのは天正8(1580)年でした。しかし、戦後の論功行賞において、景勝が上田衆を優遇したために不満が続出し、新たな問題が次々と起きます。新発田重家の不満を抑え切れないことに苦悩して安田顕元が自害、その重家が織田信長の誘いを受けて謀反、さらには直江信綱が恩賞争いに巻き込まれて殺されるなど、波乱は収まりませんでした。

で、直江家というのは名家だったんですが、信綱に跡継ぎがおらず、このままでは断絶になってしまうということで、天正9(1581)年、信綱未亡人のお船が兼続に嫁ぎ、兼続が直江家を相続。ここに至ってようやく直江兼続という名前になります。これは、自分の側近である兼続に箔を付けるための、景勝の配慮だった訳です。このあたりの話は、大河ドラマでもじっくりやってくれることでしょう。

ここから景勝・兼続主従による上杉家体制が整ってきまして、まあいろいろ話はあるんですが、そのあたりは次回に持ち越しますか。

では、続きは第四話で。

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2008/12/02

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第二話

天正6(1578)年、上杉謙信が死去し、その跡目をめぐってお家騒動が起きました。騒動の中心となった館の名前をとって、御館(おたて)の乱と呼ばれています。

謙信は妻帯しておらず、実子がいませんでしたが、上杉景勝上杉景虎上条政繁山浦景国と、4人の養子がいました。このうち、政繁と景国は上杉家分家の家督を継いでいたので、本家の相続資格はないに等しく、景勝と景虎が後継候補という状況。

景勝は弘治元(1555)年、父長尾政景、母仙桃院(謙信の姉)の次男として誕生。幼名卯松、元服して顕景。父政景は中越地方の坂戸城を居城とし、上田衆と呼ばれた配下を率いた長尾一族で、謙信が兄長尾晴景と対立した時は晴景側につき、謙信が家督を継ぐに至って謀反を起こしたものの、謙信に攻められ降伏。懐柔という意味もあって、謙信の姉が嫁入りしましたが、その後も何度か謀反の疑いをかけられた人物です。

永禄7(1564)年、政景は野尻池(野尻湖とは別のとこ)で船遊びの最中に溺死。この時、謙信の参謀だった宇佐美定満も一緒に死んでおり、謙信の密命を受けた定満による謀殺だったのではないか、という説も当時から囁かれています。

父が死に、長兄も早世していたため、顕景は謙信に引き取られて養子となり、その2年後あたりから戦陣にも参加。父の遺臣である上田衆を率いて活躍し、天正3(1575)年には上杉景勝と改名。謙信から弾正少弼の位も受け継ぎ、後継候補としてエリート的な扱いを受けていました。

その景勝の側近が直江兼続。永禄3(1560)年、長尾政景の家臣樋口兼豊の長男として誕生。幼名与六。景勝の近習として仕えていたらしく、政景が死んで景勝が謙信の養子となった時、一緒に謙信の元に引き取られたという通説がありますが、もっと後だったんじゃないかという説もあり、詳しいことは良く分かってません。

ただ、少年の頃から景勝に近侍していたのは間違いないようで、学友とでも言いましょうか、そういう存在だったと思われます。元服して樋口兼続となり、景勝とともに戦場にも赴きましたが、その頃はもちろん采配を任されるような立場ではなく、親衛隊みたいな供回りだったんでしょうな。

もう1人の後継候補である景虎は、元々北条三郎(氏秀という説もあり)という名前で、北条氏康の7男として天文23(1554)年に誕生。武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が成立した際、人質として武田家に出されたという話がありますが、それは別人の氏秀じゃないかという説が有力なので、混同を避けるためここでは三郎で話を進めます。

元亀元(1570)年、謙信と氏康が同盟し、その際に三郎は人質として越後に来ました。こういう場合の人質ってのは、本来あまり良い扱いを受けないんですが、三郎は容姿端麗な美少年だったこともあり、謙信に物凄く気に入られます。謙信の養子となり、謙信の昔の名前をもらって上杉景虎と改名し、景勝の姉を正室にしました。

景虎は、元々人質として越後に来たので、景勝とは違って自分の家臣という存在もほとんどおらず、戦陣での活躍というのは全くと言っていいほど記録に残っていません。どちらかと言うと風流とかそっち方面が堪能だったらしく、実父氏康と対立していた元関東管領上杉憲政と親しくなったのも、そのあたりが要因と思われます。

で、景勝・景虎の後継候補2人の序列がどうなってたのか、まあこれがはっきりしてなかったから、お家騒動になる訳ですが、謙信としては、越後国主と越後上杉家の当主を景勝、関東管領と関東上杉家の当主を景虎、という風に考えていたのではないか、と言われています。

両者の扱いという意味では、景勝は戦陣にガンガン連れて行き、景虎はほとんど参加させてないという違いがあり、景虎の方を大事に思ってたんじゃないか、いやいや景勝こそ頼りになると思ってたんじゃないか、などなどいろいろな説がありまして、まあ後世の人間が断じるのはなかなか難しいものがありますな。

で、謙信が後継者を明言しないまま突然倒れ、ロクに意識も戻らないまま死んだため、景勝と景虎の後継者争い、御館の乱が始まる訳です。

え~、本来なら今回、御館の乱をきっちり書くつもりだったんですが、登場人物紹介だけで結構な量になってしまったので、次回に持ち越します。

この勢いだと全何話になるかわからんね。もっと簡単に終わらすつもりだったんだけど。まあ大河ドラマが始まるまでには終わらせたいと思います。

では、続きは第三話で。

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2008/11/26

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第一話

来年の大河ドラマは直江兼続を主人公とした「天地人」でございます。兼続は上杉景勝の参謀的な存在だったんですが、世間一般での知名度はかなり低いことでしょう。そこで今回は、歴史上の人物シリーズ久々の復活ということで、兼続だけでなくその主君の上杉景勝、景勝の父である上杉謙信、以上3人のお話をしたいと思います。

かつてここで、謙信兼続について書いたことはありますが、その際はちょっとしたエピソードに触れただけだったので、今回はそれぞれの半生をツラツラと辿っていきます。とは言え、あんまり細かく取り上げてるとキリがないので、ザックリと年表をなぞる程度になりますのであしからず。それから、例によって私の独断と偏見が魑魅魍魎のごとく散りばめられて、史実や通説から外れる部分も出てくると思いますので、あらかじめご承知おき下さい。

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左から上杉謙信、上杉景勝、直江兼続

享禄3(1530)年、謙信は越後守護代長尾為景の4男として誕生。幼名は虎千代。長兄長尾晴景が父の後継者だったんですが、才気煥発な虎千代は父や兄から危険視されるような部分もあって、天文5(1536)年に春日山城下の林泉寺に預けられ、住職天室光育の教えを受けていました。

ところが父為景が天文11(1542)年に死去し(1536年死去という説もあり)、晴景では家臣団や敵対勢力を抑え切れなかった為、虎千代は翌年に林泉寺を出て元服。長尾景虎と名前を改め、中越地方の統治のため栃尾城に入城しました。

その後は晴景の名代といった感じで反乱分子を次々と討伐。その間、晴景はほとんど実戦には参加せず、酒色に耽って政務も怠っていたため、家臣団も景虎を頼るようになり、兄弟は対立していきます。

そこで越後守護上杉定実が両者の調停に乗り出し、景虎を晴景の養子として、晴景には隠居させるという形で、天文17(1548)年に景虎が家督を相続し、越後守護代に就任。その2年後、定実が死去し、後継者もいなかったため、時の将軍足利義輝によって景虎は越後国主として公認されました。

国主となってからは、越後国内の反乱分子の鎮圧、北信地方をめぐる武田信玄との対立、関東地方をめぐる北条氏康との対立、越中を中心とする一向一揆勢力との対立、といった感じで、席の暖まる暇もなく戦陣を駆け回ります。武田信玄との対立に関しては、かつてここで川中島の戦いを取り上げてますので、こちらをご参照のこと。

川中島の戦いの前後についての話は、2度手間になる部分も多いので大幅に割愛しますが、大事なことは天文21(1552)年、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を庇護したこと。憲政は上杉家の名跡と関東管領職を景虎に譲ると言い出しますが、景虎はとりあえずそれなりの結果を出すまでは待ってくれという感じで固持。

そして永禄3(1560)年、憲政を擁して関東に出陣し、最終的に氏康を小田原城まで追い詰めたことで面目は立ったという部分もあり、鶴岡八幡宮において関東管領就任式を挙行。同時に上杉家の家督を継ぎ、名前も憲政の1字をもらって上杉政虎と改めます。

その後、永禄4(1561)年には将軍義輝の1字をもらって上杉輝虎に改名、永禄12(1569)年には入道して不識庵謙信と号し、ここに至って1番有名な名前である上杉謙信となります。その間も信玄との対立は続き、一向一揆の蠢動もおさまらず、氏康とは同盟した時期もあったものの、その子北条氏政の代になって再び対立するなど、まあ相変わらずあっちへこっちへ戦いに明け暮れていました。

元亀4(1573)年、信玄が死去して武田からのプレッシャーが薄れると、謙信は関東攻略だけでなく、越中の一向一揆を中心とした勢力の鎮圧にも力を入れるようになります。さらに能登の畠山氏の内紛に介入する形で能登へ侵攻、謙信が肩入れしなかった側には織田信長が肩入れしていたため信長と対立し、天正4(1576)年には柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで一蹴します。

ところが2年後の天正6(1578)年、謙信は関東遠征の準備中に居城の春日山城で倒れ(脳卒中という説が有力)、その1週間後にあっけなく死去。跡目をめぐってお家騒動が勃発し、そこで景勝や兼続が出てくる訳ですが、ずいぶん長々となってきましたので、そのあたりの話は次回に持ち越しましょう。

では、続きは第二話で。

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2005/11/02

南光坊天海

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第三十弾は南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)。

tenkai
彼が表舞台に出てくるのは関ヶ原前後。徳川家康に仕え、関ヶ原に際して小早川秀秋を誘降したり、織田信長に焼き討ちされた比叡山を再興したりします。その後は、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件に一役買い、風水や陰陽道に基づく江戸の都市開発、日光東照宮の造営など、多方面で活躍。家康、秀忠家光の3代にわたって参謀を務め、金地院崇伝(こんちいん・すうでん)とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧です。

で、彼には伝説的なエピソードがあります。それは、実は彼は明智光秀だったのではないか、というお話。その根拠とされるものを以下に列記しましょう。

彼の前半生は不明で、家康に仕えたのは光秀が死んだ直後らしく、年齢も同年代。
彼が秀忠と家光の名付け親という説があるが、2人とも光秀の名が1字入っている。
光秀名義で1615年に寄進された石灯篭が比叡山にある(1582年に死んでる筈)。
彼が採用した家光の乳母春日局は、光秀の重臣であり甥である斉藤利三の娘。
日光のいろは坂の途中に、彼が命名した「明智平」という場所がある。
明智家の家紋である桔梗の紋が、東照宮の木像など、日光のあらゆる建造物にある。
死後、慈眼大師という名を贈られ、日光、上野、日吉大社の、いずれも慈眼堂に墓があるが、「慈眼」という名は、光秀の位牌がある慈眼寺から命名したらしい。

に関しては単なる偶然か間違いで片付けられるものの、に関しては怪しげな雰囲気が漂います。当時、光秀は主殺しという悪名を着せられていた訳で、その光秀に関わる人を採用したり、光秀に因んで命名するというのは不自然です。しかし、天海が光秀であったとすれば、分からんでもない話になります。

では、なぜ家康は光秀を保護したのか、という話になりますが、それは本能寺の変の際の違約が原因という説があります。信長死後、家康と光秀が共同戦線を敷くという密約があったものの、家康が地元に帰って出陣準備をしている間に、光秀が豊臣秀吉に負けたため作戦が失敗。家康としては違約の負い目もあり、自分が天下を取れなかった屈辱もあったので、光秀を保護し、共に秀吉打倒に力を注いだ、ということです。

まあ、どこまでが真実で、どこからがおとぎ話か分かりませんが、わりかし辻褄が合うおとぎ話なんで、私は天海=光秀説を支持してます。

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2005/10/04

江藤新平

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十九弾は江藤新平

shinpei
彼は幕末佐賀藩の人。下級武士の家に生まれた上、父が蟄居処分を受けていたことから、極貧の生活を送ります。少年時代は藩校で大隈重信らと並び称される秀才でしたが、学費が払えなかったため進学を断念。のちに脱藩して京都へ行き、長州の桂小五郎らと接触、佐賀藩を明治維新の舞台に参加させる糸口を作りました。

新政府ができると顕職を歴任し、司法卿に任じられて辣腕を発揮。三権分立の確立、汚職官吏の摘発に力を入れ、山県有朋井上馨を辞職に追い込むなど、聖域無き改革を推し進めます。しかし、山県や井上を支援する長州閥や、三権分立を否定する大久保利通らと対立。結局、明治6年に起きた征韓論に伴う政変で、西郷隆盛板垣退助後藤象二郎らとともに辞職、下野します。

彼が辞職したことを知り、佐賀では彼を掲げて反乱を起こそうという動きが熱を帯びます。彼とて、歪んだ新政府に対する反乱を否定するつもりはありませんでしたが、佐賀単独で立ち上がっても微力。薩摩や土佐と連携するぐらいでないと意味が無いので、彼は首謀者たちを諭すために帰郷。ところがここで誤算が生じることに。

その原因は岩村高俊。かつて河井継之助のことを書いた時にも出てきた、鉄砲玉のようなトラブルメーカーです。岩村は大久保の命令で九州へ向かったのですが、その命令は、有無を言わさず戦に持ち込み、討伐してしまえということでした。そういう仕事が得意な岩村は、一部の過激派を相手に挑発的に進軍し、見事に戦に持ち込みます。

やむなく江藤は反乱に組しますが、敗勢濃厚に。彼は虎口を脱し、薩摩や土佐に赴いて協力を乞うものの断られ、結局は厳重な警戒網によって捕縛されました。ちなみに、こういう非常時の警戒網を整備したのは彼でして、かつて自分が作った制度によって捕らえられた訳です。そして裁判になりますが、彼は反乱を起こした罪人に対する法を整備していませんでした。これが、のちに自分が反乱を起こすための布石だった、という言いがかりをつけられ、彼はさらし首の極刑によって殺されました。

後半生のエピソードは、中国戦国時代の秦の宰相商鞅とそっくりです。出来る人間だったため、法に忠実過ぎる人間だったため、周囲から疎んじられ、最後は自分が整備した法を良いように使われて無情に裁かれる。何とも皮肉な末路で、涙を誘いますね。

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2005/09/21

北条政子

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十八弾は北条政子

masako
日本の歴史上の女性ってのは、悪女って呼ばれるような存在か、単なる傀儡って存在が多いです。たいがいは、自分の息子や旦那や一族の既得権益を守る、あるいは拡大するために、悪女と呼ばれるような無茶苦茶なことをやったり、傀儡と呼ばれるような名目上の存在に落ち着いたりする訳です。しかし、北条政子だけは違います。

源頼朝の死後、彼女は弟の北条義時とともに鎌倉幕府の礎を築いていきます。長男頼家が二代将軍となりますが、彼は蹴鞠などの遊興に耽り、政治もロクに見なかったため、御家人たちから見放されていきます。さらには妻の一族を抱き込んで権力を独占しようとしたため、彼女は頼家の追放を決意。頼家に毒を盛ったという説もありますが、とにかく彼を修禅寺に追放し、最終的には暗殺します。

その後、次男実朝が三代将軍となり、御家人の合議制なども確立。徐々に幕府の体制が仕上がりますが、父北条時政が後妻の牧の方をもらってからおかしくなっていきます。牧の方は典型的な悪女というタイプで、時政をそそのかして陰謀を巡らせ、畠山重忠父子に謀反の罪を着せて討伐。さらには娘婿の平賀朝雅を新将軍に立て、実朝を追放するというクーデターを企てたため、政子と義時は時政夫妻を追放します。

このように、息子を追放の上暗殺、父を追放と、かなり非情な措置をとりましたが、そうまでして彼女が守ろうとしたのは、自分の名誉や権力ではありません。その信条は、承久の乱の時に、朝廷に逆らうことを畏れる御家人たちに向かって言った、彼女の言葉に表れています。現代語訳すると、「武士はもともと貴族の召し使いのような存在だった。それが今のように武士の存在が高まったのも、頼朝が鎌倉幕府を作ったからじゃないか。その恩は山よりも高く、海よりも深いものだ」という感じ。自分のことだけではなく、武士の存在そのものを守るために、彼女は頑張っていたのです。

この他にも、実朝に公家から養子をもらう話を進めるために京都に行った時、後鳥羽上皇との面会を許されたものの、「私は田舎者ですから」と言って断るなど、歴史に良く登場する女性とは違い、彼女は名誉や権力のために動く人ではありませんでした。

とても立派な人だったんですが、残念ながら彼女の死後の鎌倉幕府は、北条家の名誉と権力を守るための専制政治が確立。彼女の理想とはかけ離れた存在になりました。

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2005/09/07

大谷吉継

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十七弾は大谷吉継

yoshitsugu
彼は豊臣秀吉の幕僚として活躍した人。秀吉の配下は、尾張で仕官した加藤清正福島正則などの武断派と、近江で仕官した石田三成増田長盛などの文治派が対立していました。彼は近江出身で若い頃から三成の親友でしたが、戦場でも功を挙げ、官僚としても活躍する、文武両道で誠実な人だったことから、どちらの派閥からも頼りにされ、事あるごとに両派の仲裁をする存在でした。

両派の対立は、朝鮮出兵、そして秀吉の死によって本格化。ところが、その頃彼は癩病(ハンセン病)に冒されていたため、第一線を退いていました。視力も落ち、歩行も困難になる中、衝突を避けようと周旋しますが、辛うじて暴発を抑えるのが精一杯。

そして、関ヶ原を迎えます。彼は東征する家康軍に参加するため、領国の敦賀を出発。途中、三成から使者が来たため、佐和山城へ寄ったところ、挙兵の相談を受けます。形勢不利であることを訴え、思いとどまるよう説得しますが、三成の決意は固く、話は平行線。諦めて家康の元に赴こうとしますが、悩んだ末に三成と行動を共にします。

最終的に西軍につきましたが、彼がそう決断した理由の1つが茶会でのエピソード。その茶会は、主人が出した茶を、客が順番に回し飲みするというスタイル。彼はすでに病に冒されていたのですが、茶を飲んだ際、皮膚から膿が落ち、茶碗の中に入ってしまいました。次の番は三成。彼が茶碗を渡せずに逡巡していると、三成は「喉が渇いてんだから早くよこせよ」と言いつつ茶碗を取り、一気に飲み干しました。同席していた面々が呆気に取られる中、彼と三成の絆が不動のものになった訳です。

他の理由としては、自分の命がもう長くないことを悟り、戦場で死ぬことを望んだ、という部分もあったでしょう。しかしいずれにしても、単なる感情論で動いた訳ではなく、戦う以上それなりの戦略を講じました。三成が大将になるのではなく、お飾りの大将を豊臣秀頼、名目上の大将を毛利輝元に据えたあたりは、彼の進言だったようです。真田家との連携も、真田幸村が彼の娘婿だったのが1つのポイントでした。

関ヶ原の際、彼はすでに失明し、歩行不能だったことから、粗末な輿に乗り、耳で聞く戦場の音と、部下の報告をもとに、采配を振るったそうです。重病になりながら、命が尽きる最後の最後まで誠実に懸命に生き抜いた、あっぱれな男だと思います。

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2005/08/17

上杉鷹山

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十六弾は上杉鷹山(治憲)

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彼は米沢藩の9代藩主。私の大好きな上杉謙信の上杉家ですが、謙信没後は苦難の道を辿ります。謙信の養子である初代藩主景勝の時、越後から会津120万石へ転封。その後、関ヶ原で西軍についたため、米沢30万石へ減封。3代藩主綱勝が跡継ぎを決めないまま急死した時は、本来なら取り潰しとなる筈でしたが、保科正之の周旋により吉良上野介(義央)の息子を迎えて4代藩主とし、15万石に減封。

こうして15万石まで落ちぶれた訳ですが、家臣の数を減らさない方針だったことから財政は逼迫。さらには度重なる飢饉で、まさに台所は火の車。そんな状況で、8代藩主重定に子供がいなかったため、鷹山が養子となって9代藩主となりました。

徹底的な財政改革をしなければいけないということで、彼は倹約と殖産興業に力を入れます。服装や食事も粗末なものにし、自邸の庭に桑を植えたり、新田開発の現場に出向いたりと、自らが模範となって改革を進めましたが、家臣たちはどこ吹く風。「謙信以来の武門の家」というプライドだけが一人前で、九州の小藩から養子に来た彼を嘲り、命令に従いません。さらには、彼が手ずから植えた桑を全て引き抜いたり、新たに開墾した土地を荒らしたりと、あまりにも露骨な嫌がらせをしました。

しかし、少しずつ彼の姿勢が浸透し、若い家臣を中心に足並みが揃ってくると、米沢織などの特産品も徐々に軌道に乗ってきます。頑として彼に反抗する家老たちには、切腹などの厳しい処断を下し、ようやく藩を挙げての改革が実を結んでいきます。決して順調に事が運んだ訳ではないですが、常に自らが先頭に立つことで、家臣や領民と苦楽を共にし、地道に改革を進めた努力家です。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という座右の銘が有名ですが、まさにこの言葉通りの生き方を貫きました。

「経済」という言葉は、もともと「経世済民」という言葉の略語で、今では本来の意味で使われていませんが、彼は本来の意味の「経済」を立て直した立派な人です。
そんな訳で、かつてケネディ大統領は、「日本で一番尊敬する政治家は誰?」と日本人記者に質問された時に、即座に「上杉鷹山」と答えたそうです。質問した記者は鷹山のことを知らなかったので、ポカンとしてたそうですが…。

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2005/07/26

結城秀康

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十五弾は結城秀康(羽柴、豊臣、松平、徳川)。

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彼は家康の次男、幼名於義丸。家康の正室築山殿の侍女だった母お万が、家康からも築山殿からも疎んじられていたため、家老の本多重次によって匿われるような状況で誕生。家康にもなかなか認知してもらえず、初対面は3歳の時。その後、兄信康信長によって切腹させられ、次男の彼が後継ぎとなってもおかしくなかったのですが、三男秀忠が後継ぎになります。家康は秀忠の母お愛を寵愛してたんでね。

小牧長久手の戦いで秀吉と家康が講和した際、彼は人質という含みで秀吉の養子となります。この時に元服し、秀吉と家康の名前を一字ずつとって羽柴秀康と名乗りました。実子のない秀吉にとっては後継者候補の1人という存在で、のちの関白豊臣秀次、関ヶ原でキーマンになった小早川秀秋らとともに、それなりの待遇を受けていました。

しかし、秀吉に長男鶴松が誕生すると、状況は一変。結城10万石の結城家に婿養子に出され、結城秀康となります。ところが鶴松が3歳にして亡くなると、彼は秀吉に頼られ、領国を離れて京阪で秀吉の補佐をします。その後、秀吉に次男秀頼が誕生すると、また遠去けられ、付かず離れずという微妙な状況になります。

秀吉死後、関ヶ原に際し、彼は家康陣営につきます。実戦では、上杉家に対する抑えとして宇都宮に滞陣。上杉家が矛先を変えたため、戦功はありませんでしたが、戦後、越前を中心に75万石の大封を得て、松平秀康となりました。家康は越前松平家を「制外の家」と定義し、他の大名よりもワンランク上の存在にしました。

彼は関ヶ原の7年後に病死。享年34歳。一部には、家康の手の者による毒殺との説もあります。後継者にもされず、人質に出されるなど、無下な扱いをした実父家康に含むところがあり、養父秀吉にはそれなりに優遇されていたので、秀康は基本的には豊臣派と思われていました。それを懐柔するために家康は厚遇していたものの、関ヶ原の後、大坂の陣に向けて不穏な情勢となり、秀康が豊臣方につくのを恐れて手を下したらしい、ということです。結局、最後まで家康に信用されなかったのでしょう。

家の都合や親の思惑であっちこっちにとばされ、どこへ行っても余所者扱い。それでも健気に頑張っていた、と言うよりは、常にグチをたれてたらしく、乱行の数々も伝えられてますが、本質的には人の情にあまり縁がなかった、かわいそうな人です。

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2005/07/06

范蠡

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十四弾は范蠡(はんれい)。

彼は中国の春秋時代、越の宰相として活躍した人です。越王の勾践を、春秋五覇の一人に育て上げた辣腕の持ち主ですが、そこへ至るエピソードは多過ぎるので、サクッと割愛します。興味のある方は「范蠡」、「勾践」、「臥薪嘗胆」などで検索して下さい。

私が語りたいのは、勾践が覇者となった後。范蠡は「飛鳥尽きて良弓蔵われ、狡兎死して走狗烹らる」という言葉を残し、宰相の地位を捨てて越を去ります。言葉の意味は、「鳥がいなくなると、良い弓も蔵にしまわれる。兎がいなくなると、猟犬も煮て食われる」ということ。これと同様に、越が天下を取るために必要な存在だった自分も、いざ天下を取ると不要な存在になるだろう、と彼は思った訳です。

ちなみにこの言葉は、彼とともに覇業を支えた文種という人に言ったもの。「お前も身の振り方考えとけよ」というニュアンスで伝えたようですが、文種は彼のアドバイスをきかずに越に残り、のちに、あらぬ疑いをかけられて勾践に殺されました。

越を去った范蠡は斉に落ち着き、名前を鴟夷子皮(しいしひ)と変え、商売を始めます。地方によって物価が違うため、ある所で安く仕入れた物を、別の所で高く売るというやり口で、巨万の富を得ました。その後、鴟夷子皮が実は范蠡である、ということを知った斉の首脳陣は、彼を登用しようとしますが、彼は無下に断ります。無下に断った以上、斉に長居は無用ということで、彼はほとんどの財産を使用人たちに分け与え、斉を去ります。

斉を去った彼は陶に落ち着きます。今度は陶朱公(とうしゅこう)と名を変え、また商売を始め、また巨万の富を得て、まあおおむね穏やかに死んでいったそうです。

いやあ、なかなかできることじゃないです。誰だって、地位や権力や金を得たら、それにしがみつきたくなるでしょ。それを2度もスパッと捨てちゃうなんて、もったいないオバケが出てきそうです。きっと、物凄く達観した人だったんでしょうな。

あ、補足しときますと、鴟夷子皮、陶朱公は、范蠡とは別人という説もあります。義経がジンギスカンになった、という話ほどの荒唐無稽なレベルではないですが、多少おとぎ話的に伝えられてることなので、范蠡の後半生の真相は不明です。あしからず。

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2005/06/14

佐々木道誉

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十三弾は佐々木道誉(京極高氏)。

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源頼朝の配下として活躍した佐々木兄弟で有名な、近江佐々木源氏の血筋。佐々木家は承久の乱の後、京都における拠点を、本家が六角、分家が京極に構えたことから、通称はそれぞれ六角、京極となりました。彼は分家である京極家の五代目当主。しかし、本家である六角家の当時の当主が若かったこともあり、あらゆる局面で彼が補佐したので、実質的には佐々木家全体の当主という状況でした。

当初は高氏という名前でしたが、これは、時の鎌倉幕府執権北条高時から一字貰ったもの。足利尊氏も当初は高氏と名乗っていましたが、同じ理由によるものです(のちに後醍醐天皇の諱である尊治から一字貰って尊氏に改名)。同じ名前、同じ源氏の血筋、そして、平家の血筋の北条家が専横を極める状況を忌み嫌う点など、両者は相通ずるところがあり、ともに早い段階から鎌倉幕府打倒を意識していたようです。

本格的に尊氏が挙兵するあたりから、彼は尊氏と気脈を通じて作戦を展開。後醍醐天皇と尊氏が不和になり、新田義貞率いる朝廷軍と足利軍が戦った際は、一旦義貞に降服し、激戦のさなかに足利方に寝返って、勝利のきっかけを作りました。これも、前々から尊氏と打ち合わせていた作戦だった、という説があります。

室町幕府成立後は、幕府の要職を歴任。戦の際は、二代将軍義詮を幾度と無く窮地から救う活躍を見せました。しかし、そういった公の場での活躍だけでなく、「婆沙羅(ばさら)大名」と称されたように、派手で突飛な行動をすることが彼の真骨頂。寺社と揉め事を起こして流罪になった際は、ド派手な衣装を身にまとって京を出発、配流先には向かわず遊び呆けるなど、人を小バカにすると言うか、マイペースと言うか、その徹底ぶりは痛快です。

彼は、文学、芸能などにも通じた教養人でした。「菟玖波集(つくばしゅう)」という、連歌を収めた準勅撰集には、彼の詠んだ歌がかなり選ばれていますし、観阿弥世阿弥の師匠を保護し続けるなど、そういう分野でも当時の第一線で活躍。かつてここで書いた前田慶次は「傾奇者」と呼ばれていましたが、その元祖という感じの存在です。

あらゆる分野に才能があり、それを基に自由気ままに振舞う。何事にも大した才能のない私としては、羨ましくてしょうがないです。

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2005/05/25

伊達政宗

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十二弾は伊達政宗

masamune
「伊達男」とか「伊達メガネ」などの語源になったとも言われ、なにかと周囲の度肝を抜くような行動をしたことで有名ですが、この人を語るに当たっては、肉親との壮絶なまでの訣別を忘れてはいけません。

まずは父輝宗との訣別。近隣の敵対勢力である二本松義継と和議を結ぶ話になった際、父は和議に前向きだったのですが、彼は消極的でした。いざ和議を結ぼうという段階になり、そのあたりの微妙な空気を察した義継は、自分に有利な条件で話をつけるため、父を人質として拉致して逃走。彼はすぐに追いついたのですが、父を楯に逃げようとする義継に対し、手を出せませんでした。これを見た父は、自分もろとも義継を殺して将来の禍根を絶つよう命令。彼は、泣く泣く鉄砲隊に発砲を命じ、結果的に自らの手で父を殺しました。

続いて母義姫(保春院)と弟小次郎(政道)との訣別。彼は幼少時の病気が原因で隻眼になった訳ですが、母はそれを忌み嫌い、見目麗しい弟を溺愛するようになります。頃合を見計らっては、彼を排除し、弟に家督を継がせようという策略を巡らし、最終的には彼に毒を盛るところまでエスカレート。このままでは、伊達家が政宗派と小次郎派に分裂しかねないと判断した彼は、弟を殺し、母を生家に追放しました。

これ以外にも、一族の伊達成実に関しては、論功行賞的な部分で揉めて、成実が伊達家を出奔するなんてこともありました(のちに帰参)。
娘婿の松平忠輝(家康の六男)に関しては、二代将軍秀忠を排除して、忠輝を三代将軍にする陰謀を巡らせたらしいのですが、形勢不利と見るや、忠輝を見捨てました。
重臣の支倉常長に関しては、常長をスペインへ派遣し、無敵艦隊に支援を仰いで徳川幕府の転覆を図ったらしいのですが、形勢不利と見るや、常長を見捨てています。

自分が隻眼だったことのコンプレックスもあったでしょうし、肉親たちと良い関係を築けずに成長してきたことの影響もあったでしょうが、彼は自分に近い存在をあまり信用していなかったと言うか、自分しか信じられないと言うか、そういう部分を持った、物凄く孤独な人だったんでしょうな。
世間一般で語られている政宗は、派手で破天荒なイメージですが、実際はもっともっと悲劇的な人だったんだと思います。

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2005/05/04

源実朝

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十一弾は源実朝

sanetomo
ご存知の通り、鎌倉幕府第三代将軍。「歌人将軍」と言われ、彼の残した歌が「金塊和歌集」という形で残っている、武士としてはかなり珍しい存在。

彼は、歌を通じて朝廷とのつながりが深くなり、いわゆる公武合体を理想として考えるようになりました。しかし、御家人たちは朝廷からの独立、あるいは朝廷の支配を理想としていたので、相容れません。当時の幕府は、執権北条義時を中心とした、御家人衆の合議によって何事も裁決され、彼は最後のゴーサインを出すだけの存在。彼の意見は結局通らないことが多く、そういう現実からの逃避が歌であり、その現実を打破する手段が官位だったんでしょう。官位が高くなれば、御家人は彼に意見を言うことも、直接会うこともできなくなりますから。

最終的には兄頼家の子供である公暁に殺されましたが、公暁は単なる実行犯であり、主犯は北条義時、三浦義村で、基本的に御家人の総意だったようです。暗殺されたのは、彼の右大臣拝賀式の時だったんですが、このまま右大臣になっちゃうと、御家人の裁決が通らなくなる恐れがあったんでね。まあ、殺されるべくして殺されたんです。

彼自身も、自分の暗殺計画に気付いていたようです。それは、彼が拝賀式に向かう直前に詠んだ歌に表れています。「出(いで)ていなば、主(ぬし)無き宿となりぬとも、軒端の梅よ春を忘るな」という歌。意味としては、「私はここからいなくなるけど、毎年咲き誇ってきた梅よ、春が来たら今までと変わらずに咲いておくれ」という感じ。

これね、明らかにパクリです。菅原道真が大宰府に左遷される時に詠んだ、「東風吹かば、匂い起こせよ梅の花、主(あるじ)無しとて春な忘れそ」と、意味は全く同じです。しかも、わざとらしく「あるじ」を「ぬし」に変えてるとことか、「春な忘れそ」の「な…そ」という慣用表現をあえて使わず、歌を理解できない武士にもわかるようにしてるとことか、無骨な御家人たちへのあてつけとしか言いようがありません。

この歌は、実朝が詠んだ歌の中で一番の駄作でしょう。他の歌は、もっと怒涛のような修辞があり、流れるような美しさがありますから。でもね、自分の運命を最終的には無抵抗に受け入れ、歌に生き、歌に死んで行く、そういうこだわりが私は好きです。もし彼が、単なる歌人という立場だったら、もっと違う人生になってたことでしょう。

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2005/03/29

郭嘉

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十弾は郭嘉(かくか)。

彼は中国の三国時代、曹操率いる魏の軍師として活躍した人です。
軍師と言ってもいろんなタイプの人がいます。軍師という名前の通り、軍を統率して兵法の限りを尽くす人。他国との外交交渉や謀略をめぐらせる人。内政面や戦場への後方支援などで辣腕を発揮する人などなど。

曹操陣営では、賈詡が外交タイプ、荀攸程昱は内政タイプ、荀彧司馬懿はオールラウンドプレイヤーといった感じですが、郭嘉は名前の通りの軍師というタイプでした。どのキャラにもそれぞれ魅力がありますし、曹操陣営にはいろんなタイプの軍師がいて、それぞれが実力を発揮したからこそ、三国随一の存在になれたんでしょうな。

他国の軍師の中では、かつてここで取り上げた周瑜龐統も、郭嘉と同じ正統派の軍師タイプです。3人とも、兵法に通じた賢者であり、戦場での指揮ぶりは職人って感じがします。奇しくも、3人とも30代なかばにして早世したんですが、そのあたりのエピソードにも哀愁を感じてしまいますね。

郭嘉が活躍したのは、曹操の覇業の前半です。魏がまだ大した勢力ではなかった頃から、同郷の荀彧、荀攸、程昱らとともに曹操の片腕として活躍。呂布袁術袁紹らを次々に打ち破り、魏を三国時代最大の勢力にまで押し上げました。しかし、袁紹の残党を掃討する途中、または掃討した後に病死したようです。

彼の死後、魏はひどい負け方をすることが増えたのですが、その最たるものが、呉蜀連合軍に大敗した「赤壁の戦い」でしょう。戦後に曹操は、「郭嘉が生きていたら、こんな惨めな思いはしなかっただろうに…」と嘆いたそうです。
曹操は日本人で例えれば織田信長のような存在で、自分自身の才覚が極めて優れていたため、家臣を100%頼ったりするタイプの人じゃなかったのですが、そういう人にここまで言わしめるってのは、凄いですね。

郭嘉を日本人で例えれば、竹中半兵衛でしょうか。彼も早世してますし。黒田官兵衛本多正信は賈詡タイプだし。まあそもそも日本の歴史の中で、軍師って存在は少ないですね。戦国時代はこの3人ぐらいしかいないし、それ以外では幕末の大村益次郎ぐらいしか思い当たりません。

なぜ日本には軍師が少ないんでしょうか?

中国の春秋戦国時代や三国時代で有名な人たちってのは、基本的には中央官僚という感じでして、各地方の長官とか領主って存在の人は、あまり表に出てこないと言うか、国政に影響を与えるような立場にはありません。
一方日本の武士の時代では、荘園領主という時代から始まり、守護地頭という時代を経て、大名と称される人たちが影響力を及ぼすに至る過程の中で、とにかく、どれだけの領地を持っているかってことが、国政に影響を及ぼし得る重要なポイントになっていった訳です。一所懸命という言葉も、日本がいかに土地にこだわっていたかという顕れですね。

野球で例えれば、中国の場合、先発のエース、中継ぎの職人、リリーフエース、ホームランバッター、アベレージヒッター、俊足の選手、守備の名手、代打の切り札、そしてそれら全部をまとめる監督という感じで、「分業」が基本だった訳です。
日本の場合、エースで4番で監督って感じの人が全国各地に散らばってて、それを全部まとめ得る存在が天下人という、「分国」が基本だった訳です。そして、一つ一つの地方勢力も「分国」が基本で、いわゆる地侍とか国人領主とか、小さい勢力ながらもエースで4番で監督って感じの人たちの、集合体だった訳です。

中国では「分業」が発達していたため、それぞれの分野のスペシャリストが綺羅星の如く出てくる素地があった。日本では「分国」が発達していたため、オールラウンドプレイヤーが綺羅星の如く出てくる素地があった。そういう違いが、軍師と呼ばれる存在が日本に少ない原因なんだと思います。

才能という意味では、軍師って呼ばれてもおかしくない人は、日本にもたくさんいます。ここで取り上げてきた上杉謙信にしろ真田幸村にしろ、そういう人です。彼らが、大名とか領主という立場ではなく、一軍師という立場だったら、天才的な戦術家としてもっと評価されていたことと思います。源義経だってね、頼朝の弟って立場を捨てて、単なる軍師って存在になれてたら、もっと長生きできたことでしょう。

「分業」が良いのか「分国」が良いのかわかりませんが、「分業」だと個性豊かな人材が揃う可能性が高く、「分国」だと似通った人材が揃う可能性が高いんでしょうな。

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2005/03/09

長宗我部盛親

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十九弾は長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)。

morichika
彼は、長宗我部元親の四男。父元親は、外交面では信長と付かず離れずやりくりし、内政面では一領具足という制度を確立し、四国を統一した名将。その長男で、盛親の兄にあたる信親も将来を嘱望されていたのですが、秀吉の九州征伐に従軍した際、戦場で命を落としてしまいます。

元親の跡継ぎは長男の信親に決まってたので、他の人を選ばなければいけません。候補としては、次男の親和、三男の親忠がいたのですが、二人とも元親に嫌われていたので、四男の盛親が跡継ぎとなりました。しかし、彼が跡継ぎになることに不満を唱える家臣も多く、後事を懸念した父元親は、不満分子の家臣を暗殺しちゃいました。

跡継ぎになった当初から一悶着あった訳ですが、父の死後も、彼の周囲は意思統一がなされず、揉め事が多かったです。

関ヶ原に際しては、どちらに味方するかで揉め、一応東軍につくことに決まったものの、家康への使者が三成の配下に捕まってしまい、仕方なく西軍につきました。いざ合戦という段階になっても、西軍派と東軍派でいがみ合い、それを盛親もまとめきれなかったため、天下分け目の戦いで何もせずに傍観してるだけでした。

戦後、徳川四天王の一人である井伊直政を通じて和解を求めたましたが、それとは別に、兄親忠が戦前から藤堂高虎を通じて話を進めてました。これが、盛親を追い落とすための策略だという讒言に踊らされ、盛親は兄を暗殺してしまいます。この結果、奸臣の讒言を真に受けて兄を殺した不届者という烙印を押され、所領は没収。盛親自身は京都で寺子屋をしながら、食うや食わずの生活をするとこまで落ちぶれました。

大坂の陣に際し、彼は寓居を抜け出して大坂城に篭ります。元は土佐の大名ということで期待されたのですが、真田幸村後藤又兵衛ほどの活躍もできないまま、徳川軍に捕らわれ、最後は京都で晒し首にされました。

良いですねえ、不甲斐ないと言うか、うだつが上がらないと言うか、この情けない感じ。トップに立つような器の人間じゃないし、優柔不断だし、戦場で一働きできるほどの腕達者でもない。私にそっくりで、とても親近感を覚えます。

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2005/02/17

明智光秀

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十八弾は明智光秀

mitsuhide
今さらウダウダ説明するまでも無い超有名人ですが、この人を語るに当たっては、同じ時代で並び称される、織田信長豊臣秀吉徳川家康と比較しなきゃいけません。

信長は、旧体制をとことん破壊して新体制を築こうっていう、物凄いバイタリティーの持ち主で、ちょっと付いていけないなあってイメージ。
秀吉は、最初の頃はプライドも何もなく他人に取り入ることばかり考えてて、出世したと思ったら暴君になりやがって、最悪だなあってイメージ。
家康は、ずーっと牙を隠して良い子のふりをしてて、いざとなったらしたたかに動いて、器用に立ち回ったなあってイメージ。

光秀の場合、信長みたいに、旧体制を破壊するほどの新しい感覚はありません。
秀吉みたいに、他人に取り入ったり、立場が変わった途端に横柄になるような、感じの悪い人間でもありません。
家康みたいに、自分の才覚を隠し通すような、器用な人間でもありません。
旧体制に逆らうほどの気概は無く、感じも良く、不器用な人間だから、世の中を自分の都合の良いように渡り歩くことができなかった、曲がった事を適当にごまかす事ができなかった、そういう人なんです。

「鳴かぬなら、……、ほととぎす」という句がありますね。「……」の部分は、信長は「殺してしまえ」、秀吉は「鳴かせてみせよう」、家康は「鳴くまで待とう」です。
光秀の場合は取り沙汰されていませんが、私の考えでは、「逃がしてやろう」というのが光秀の思想だったと思います。信長も秀吉も家康も、自分の都合に合わせることしか考えない、という人間性が句に表れてますが、光秀はそうじゃありませんから。

本能寺の変にしたって、ただ単に信長との確執が原因だった訳ではありません。朝廷関係者や、室町幕府最後の将軍足利義昭など、信長に虐げられてた人たちから助けを求められた部分が大きな要因です。私怨で動いたんじゃなく、世のため人のためと思って動いたことですからね。ただし実際問題、世のため人のためになったかどうかは疑問ですが。

まあとにかくね、こういった感じで聖人君子のような人だったんです。当時の大名は妾がたくさんいるのが当たり前だったのに、光秀は正妻一人しかいませんでしたし。
主君信長を殺した大悪人というイメージが強いと思いますが、もっと違う時代にもっと違う境遇で生まれていたら、もっと違った形で歴史に名を残せたことでしょう。

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2005/01/20

立花道雪、高橋紹運、立花宗茂

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十七弾は立花道雪高橋紹運立花宗茂

かつて、ここでチラッと触れたことがありますが、三人とも大友宗麟の家臣でして、崩壊直前の大友家を支え続けた人です。立花道雪と高橋紹運は家老的な存在。立花宗茂は高橋紹運の実子で、のちに立花道雪の婿養子となり、三人揃って大活躍しました。

大友家は現在の大分県を中心に、九州北部を治める大名でした。しかし、宗麟がキリスト教に帰依したことから、崩壊の道を辿ります。宗麟はキリスト教の理想郷を作ると言い張って、無理な領土拡張に乗り出しました。そして、耳川の戦いで島津軍に大敗したことにより、多くの家臣も離反し、音を立てて崩れていった訳です。

そんな中、三人は常に戦陣にあり、あくまでも大友家を支え続けます。
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まずは立花道雪。彼は若い頃に落雷にあい、足が不自由だったため、戦場では輿に乗って采配を振るいました。生涯に37度戦って1度も遅れをとらなかったそうですが、最終的には勢いづいた島津家の矢面に立ち塞がって、黄泉の国へ旅立ちます。

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続いて高橋紹運。道雪の死後、約10万の大軍で攻め寄せてきた島津軍に対し、わずか700人程度で岩屋城に篭って抵抗します。完全に捨て石という立場でしたが、少しでも時間を稼いで、豊臣秀吉の援軍が九州に入れるよう、身を挺して戦った訳です。
数字的には圧倒的に不利でしたが、約2週間粘り、最後は敵味方が見守る前で切腹しました。この戦いで、島津軍は約3千人が戦死したそうです。いかに紹運が頑張ったかがわかりますね。ちなみに、私は三人の中で一番紹運が好きです。苗字も同じだし。

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そして立花宗茂。父紹運が岩屋城に篭った際は、自分の居城である立花城へ退くよう何度となく説得します。しかし、父が自ら捨て石になって時間を稼ごうとしていることを理解し、後事を全うするため立花城で秀吉の援軍を待ちました。
そして、岩屋城を落とした島津軍が立花城に殺到します。しかし、父が奮闘したことにより、間もなく秀吉の援軍が到着。形勢は逆転し、島津家は秀吉に降伏しました。

この九州征伐の功により、宗茂は柳川13万石の大名に取り立てられました。これは、大友家と宗茂を引き離すための、秀吉の策略だったという見方もあります。実際、大友家は跡継ぎの義統が無能だったこともあり、朝鮮出兵の後に改易されてますから。
結局、忠臣がどんだけ頑張っても、バカ殿ではダメということですな。悲しい話だ…。

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2004/11/24

周瑜

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十六弾は周瑜(しゅうゆ)。

彼は、中国の三国時代に、呉という国で活躍した人です。孫堅孫策孫権の3代にわたり、軍の最高指揮官を務め、呉の礎を築いたと言っても過言ではありません。

彼が最も活躍したのが、呉と蜀の連合軍が、曹操率いる魏を打ち破った大会戦、赤壁の戦いです。「三国志演義」では、蜀の諸葛孔明が大活躍したことになっていますが、実際には孔明の出番はほとんど無く、周瑜の独り舞台だったようです。
この時にいろいろな策で魏を翻弄した訳ですが、その中で最も有名なのが「苦肉の策」でしょう。今では、「苦しまぎれ」という意味にとられることが多いですが、元々は「目的遂行のためには、自分をも犠牲にする」という意味です。

舞台は長江。魏は約20万人の大船団。対する呉蜀連合軍は3万程度。マトモにぶつかっては勝ち目がない状況です。そこで周瑜が思いついたのが火攻め。呉を裏切って魏に投降すると見せかけた船に火をつけ、魏の船団に突っ込ませて焼き尽くしてしまおうという作戦です。
で、その投降が偽りではないと思わせるために、「苦肉の策」を使いました。投降役は黄蓋(こうがい)という武将なのですが、彼と周瑜が大喧嘩する訳です。そして、「最高指揮官に楯突いた不届き者」ということで、黄蓋を鞭打ちの刑に処します。憤懣やるかたない黄蓋が、呉を裏切って魏に投降するというシナリオを演じた訳です。
呉に入り込んでいた魏のスパイが一部始終を見ていたこともあり、黄蓋の投降が偽りだと見抜けなかったため、魏の大船団は紅蓮の炎に包まれ、大敗北を喫しました。

しかし、「苦肉の策」で実際に「自分をも犠牲にする」という立場だったのは黄蓋でして、周瑜は痛い思いはしてません。でも、作戦の一環とは言え、黄蓋を鞭打った周瑜も、結構シンドイ立場でした。「敵を欺くには味方から」ということもあって、一部の人間しか策の真実を知らず、そういう状況で自ら悪役を演じてたんでね。
この時以外も、周瑜は呉のために、自らが先頭に立って戦うことを貫いた人です。

「苦肉の策」のように、歴史上の出来事が、今でも言葉として残ってるものは多々あります。「臥薪嘗胆」、「傾国の美女」、「左遷」、「背水の陣」、「四面楚歌」、「立ち往生」、「敵に塩を送る」、「元の木阿弥」、「天王山」などなど、キリがありませんな。
しかし、今では本来の意味で使われてないものもありますね。なんでかしら?

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2004/11/09

河井継之助

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十五弾は河井継之助

tsugunosuke
彼は幕末の長岡藩家老。当時、薩長を中心とする倒幕派と、佐幕派の武力衝突は秒読み段階。僅か七万四千石の長岡藩も、旗幟を鮮明にしなければならない状況でした。
内乱が起これば喜ぶのは諸外国であり、愚かしい行為であると考えた彼は、中立を目指します。それも、ただ日和見を決め込むのではなく、武力を背景に中立し、両者の対立を調停して、小藩である長岡藩の存在意義を高めようとしたのです。

手始めに、当時最新鋭のガットリング砲などを手に入れ、長岡藩の軍制改革に乗り出します。その後、藩主とともに京へ行き、倒幕派と佐幕派の調停を試みますが、たかが七万四千石の小藩の言う事など見向きもされませんでした。そして、鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍が新政府軍に敗北したことにより、いわゆる戊辰戦争が本格化します。

長岡へも新政府軍が侵攻してきたため、彼は中立の意思を説明するため、新政府軍の本営へ赴きました。しかし、出てきた相手は土佐藩士の岩村精一郎(高俊)という軽輩。新政府軍の勢いを笠に着ただけの若造でした。ロクに世情も知らないアホとの話し合いは不調に終わり、長岡藩は佐幕派の東北諸藩と同盟、新政府軍と戦うことに。
最新鋭の武器で抵抗したものの、圧倒的物量で攻めてきた新政府軍に敗北。継之助は同盟を組んでいた会津へ向かう途中、戦場での怪我がもとで黄泉の国へ旅立ちました。

もし、会談に出てきた人間がもう少しマトモだったら、本来そこにいる筈だった黒田了介(清隆、もしくは山県狂介(有朋)だったら、とりあえずお互い適当に手を打って、無駄な血を流さずに事を進めることができた筈です。
会津の惨劇なんかも、長州の世良修蔵っていう、岩村と同じで新政府軍の勢いを笠に着たバカの行動がきっかけになって、無駄な血を流すハメになりました。

歴史の大事な局面において、こういうおバカさんの行動がポイントになることは多いですね。関ヶ原における小早川秀秋とか、大坂の陣における淀殿とか、応仁の乱はどいつもこいつもおバカさんだし。

そういうおバカさんの行動で憂き目を見るのは、継之助のように有能な人物な訳です。彼がもう少し長生きしていたら、新政府でそれなりの活躍をしていただろうと思うにつけ、岩村くんをぶっ飛ばしてやりたくなりますね。

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2004/10/19

平将門

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十四弾は平将門

masakado
将門と言うと、大手町にある首塚が高名な心霊スポットになってたりして、不気味なイメージが強いでしょうし、歴史の教科書では、新皇を名乗るなど大罪を犯した謀反人という評価になっています。しかし、実際にはわりかし純朴な人ですし、貴族中心の中央集権国家に一石を投じた英雄です。

彼は若い頃、時の関白藤原忠平に仕える小役人でした。しかし、当時の中央政界は賄賂や汚職がはびこり、金に物を言わせて出世する人間が横行していました。それに嫌気が差した彼は、故郷の下総に帰ります。
ところが彼の故郷は、彼の父が死んだのをいいことに、親族たちが彼の領地を横領もしくは侵攻した後でした。親族たちとしては、中央の貴族に取り入るための収入源が少しでも多く欲しかった訳で、その出世欲の前には血縁も何も無かったのです。

父祖以来の領地を失った彼は、こういったイザコザの要因が、当時の中央政界の乱れによることを実感するとともに、一番被害を受けるのは何の関係もない領民であることに心を痛めます。彼は一旦雌伏し、力を蓄えてから反撃に移りました。一進一退ののち、下総一帯を手にしたあたりから、自分のためにも領民のためにも地方自治を意識。単に中央に対して反乱を起こすのではなく、のちの奥州藤原家のような、中央にも承認させる形での半独立を目指しました。

彼は旧主藤原忠平に自分の主張を伝えましたが、これを認めれば第二の将門が出てくる恐れがあり、利権も減ってしまうので、将門は謀反人と断定されます。
また、将門のブレーンと言うか、金魚のフンといった感じの興世王(おきよおう)という人がいたのですが、彼は中央政界を追われ、忠平に恨みを持っていたので、将門の案を否定し、本格的な反乱の下準備を始めてしまいます。
結局、忠平に見捨てられ、興世王にそそのかされたので、将門は反乱の道に行かざるを得なくなり、その後の悲劇の主人公となってしまいます。

当時の状況で地方自治という考えは革新的で、その慧眼の持ち主を単なる謀反人で片付けてしまう歴史の教科書はいかがなものかと思います。もっと評価されるべきです。
とは言え、ここに書いた彼の人となりは、私の独断と偏見であって、実際に彼がどういう人間だったかは良く分かってません。文献によって記述が大幅に違うんでね。

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2004/09/29

山中鹿介

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十三弾は山中鹿介(しかのすけ)。

shikanosuke
彼は、没落しつつあった尼子家の家臣。参謀的な存在でもあり、いざ戦場に出れば敵と一騎討ちをする豪傑でもある、ユーティリティープレイヤーといった感じ。

尼子家は山陰地方を治める大名でしたが、毛利元就によって一旦滅ぼされます。鹿介は浪人となりますが、尼子家の血を引く勝久が京都で出家していることを知り、勝久を還俗させて挙兵。各地に雌伏していた旧臣も集まり、かつての領地の一部を回復。しかし、主家再興も束の間、毛利軍に敗北して捕われの身となります。
厳重な警備の中、彼は逃げる手段を考えます。そして選んだのはトイレからの脱出。当時ですからボットン便所ですが、ボットンの部分に落ち、軒下から逃げたのです。

その後、織田信長に臣従し、秀吉の客将として勝久とともに毛利攻めの先鋒を担当。先鋒と言えば聞こえが良いですが、要は最前線の捨て石。最終的には信長に見捨てられ、毛利軍に降伏します。勝久は切腹、彼は護送中に暗殺されました。
護送される際、彼は隙を狙って毛利家当主の輝元、もしくは家老の吉川元春小早川隆景を暗殺しようとしていたのですが、彼らに会う前に殺されてしまいました。

鹿介と言うと、「我に七難八苦を与え給え」と月に祈っていたエピソードが取り上げられ、主家再興に生涯を捧げた「忠臣の鑑」って評価になるのですが、そんなキレイ事じゃないと思います。

当時、尼子家は内紛もあったりして没落の真っ最中。そして、彼が擁した勝久は若くして出家してたので、俗世間には疎く、大将の器とは言い難い存在。
彼は有能な人間でしたから、客観的に見れば、主家がそういう状況だったのは百も承知の筈。クソまみれになって脱出したり、最後まで敵将の暗殺を図ったりしたのは、主家のためではなく、何度も苦杯を舐めさせられた毛利家に、何とか一泡吹かせてやりたい、っていう執念だと思います。単なる忠誠心で、クソまみれにはなれないでしょ。執念ってレベルじゃないと、そこまでできないでしょ。

私は無気力、無関心な人間なので、こういった執念ってのは、あまり持ち合わせてません。ですから、そういうこだわりを生きる糧にして、バイタリティー溢れる人生を送った彼は凄いなあと思うのです。

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2004/09/14

徳川宗春

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十二弾は徳川宗春

彼は徳川御三家の一つ、尾張藩の七代藩主。当時は八代将軍吉宗の治世でしたが、その吉宗にことごとく敵対した人です。

七代将軍家継が亡くなり、その後継ぎがいなかったため、御三家の中から後継者が選ばれることになりました。結局、紀伊藩の吉宗が八代将軍となった訳ですが、吉宗が選ばれた理由は、江戸城に御三家の藩主が呼ばれ、一番最初に駆けつけたからです。それだけでなく、財政破綻してた紀伊藩を立て直した実績を買われた部分もありますけどね。
本来なら、家格で言えば尾張藩の継友(宗春の兄)、年齢で言えば水戸藩の綱条(つなえだ)が選ばれてしかるべきだったのですが、そうはなりませんでした。この時から尾張藩と吉宗の確執が生まれました。その後、継友が吉宗と会食した後に変死したことから、さらに両者の確執は深まっていきました。

吉宗は「享保の改革」と言われる、極端な倹約に基づく緊縮政策を施しました。一定の成果を挙げる部分もありましたが、「米将軍」と揶揄されるほど米相場の安定に躍起になりながら結果を残せなかった部分もありました。
宗春は吉宗に真っ向から敵対し、地元尾張で極端な開放政策を施しました。倹約を完全否定し、城下に遊郭や歌舞伎小屋など遊興施設を大々的に開発。吉宗の緊縮政策で商売の種を失った商人たちも尾張に流れ込み、日本各地が不況で喘いでいる中、尾張は言ってみればバブルのような状態になりました。

しかしまあ、所詮はバブル。しっかりとした基盤があって経済発展した訳ではなかったので、好景気は長続きせず、あっという間に不景気になります。それを見た吉宗は、宗春に対し、幕府の命令に背いた政策を行なったことなどを罪状に挙げ、隠居謹慎を命じました。宗春は小さな屋敷に幽閉され、家臣たちに会うことも許されないまま、無念の死を遂げました。吉宗は宗春を憎むこと甚だしく、宗春の墓のまわりを金網で囲み、誰にも参拝を許さなかったそうです。

そんな宗春のどこが好きかと言うと、人を批判するに当たって、口だけではなく行動をともなったこと。口で批判するだけならアホでもできます。行動をともなわなければ、あるいは代替案を提示しなければ、意味がないのです。

例えば、日の丸や君が代が、天皇崇拝の象徴だと批判する人がいますが、口で批判するだけでは意味がありません。日の丸、君が代に替わる国旗、国歌を提示して、初めて批判が成り立つのです。
小泉首相ブッシュ大統領を批判する人達も最近多いですけど、自分だったらこうするんだって意思表示をともなってる人は少ないです。マイケルムーアの映画もどうなんでしょうね。まあ、私はあの映画を見てないし、今後見る気も無いんで、批判もしなきゃ同意もしませんけど。

とにかくね、批判ってのは軽々しくやっちゃいけないと思います。自分がその立場になったとして、どんだけのことができるんだろうかって真剣に考えて、その上で持論を展開しなきゃいけません。
まあ、自分の出資馬が負けるたびに、騎手や調教師を批判してる私が、こんな事言っても説得力ないけどね。

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2004/09/01

源行家

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十一弾は源行家(新宮十郎行家、義盛)。

彼は、頼朝や義経の叔父です。表舞台に登場するのは、以仁王が挙兵した時。後白河法皇の第二皇子である以仁王が、源頼政とともに平家打倒の兵を挙げた訳ですが、その際、諸国に雌伏している源氏に、以仁王の令旨を持って回ったのが彼です。

彼は当初、頼朝の陣営に参加します。しかし、自分を重用せず、あくまでも御家人扱いする頼朝に失望し、陣営を離脱。
その後、頼朝の異母弟であり、義経の同母兄である、義円(乙若)を擁して挙兵したものの、平家軍に惨敗。義円は戦死し、彼は木曽義仲の元へ逃げ込みます。
義仲とともに倶利伽羅峠で平家を破り、京から平家を追い落としたあたりが、彼の絶頂期。しかし、義仲が逆賊扱いされるに至り、この世の春は長続きしませんでした。
義仲死後は義経に近付き、頼朝と敵対する義経を援護。しかし、義経とともに都を追われ、途中で離れ離れになります。
そして、最後は頼朝の追手に捕まり、あえない最期を遂げました。

次から次へと、いろんな源氏の陣営を渡り歩いた彼ですが、結果的に決して世渡りは上手くありません。そして、常に自分は先頭に立たず、2番手、3番手という存在に甘んじましたが、決して控え目だった訳ではありません。

自分は矢面に立たず、責任のある立場には立たず、でもそれなりの権限は欲しい、おいしいとこは持っていきたい、という姿勢が彼の真髄。

いやあ、ものすごく共感できます。
私も、世渡りが上手い方ではなく、リーダーシップをとるようなカリスマ性は持ち合わせていませんし、責任を問われる立場は大嫌い。でも、それなりに良い思いや、楽しい思いをしたいっていう、人並みな欲は持ってる訳です。

もし私が、この時代に彼と同じ立場で生まれていたら、おそらく彼と同じ行動を取っていたでしょう。
私はこれまでに、400冊ぐらい歴史物の小説や文献を読んできましたが、その中の登場人物で、一番私に似ているのは彼だと思っています。
彼にとっては迷惑この上ない話かも知れませんが…。

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2004/08/18

龐統

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第十弾は龐統(ほうとう)。

彼は中国の三国時代に、蜀という国の副軍師として活躍した人です。諸葛孔明が「臥竜」と呼ばれたのに対し、彼は「鳳雛」と呼ばれ、将来を嘱望された大賢人でした。
孔明は、後に蜀を建国する劉備に仕官し、辣腕を振るっていました。ある時、孔明は彼に、劉備に仕官するよう勧めます。彼は浪人だったので、その話を受け入れました。孔明は所用があったため、劉備宛ての推薦状を書いて彼に渡し、これを持って劉備の元へ行くよう諭します。

彼は劉備の元へ行きますが、推薦状は出さず、名前だけを名乗ります。劉備は彼の噂を知っていたものの、目の前に現れた彼は、みすぼらしい格好をしており、とても大賢人には見えなかったため、彼を蔑み、地方の小役人として登用しました。
任地に赴いた彼は、職務をほったらかし、酒浸りの生活を送ります。住民や役人からも苦情が沸き起こり、これを聞いた劉備は、義弟の張飛を詰問使として差し向けます。
張飛が到着すると、噂通り彼は遊び呆けていたので叱責しますが、山積みになっている書類を前に彼は、「こんなもん、1日で片付けてやる」と豪語。そして翌日、言葉通りたった1日で、滞っていた全ての職務を片付けてしまいます。

彼の才能に驚いた張飛は、急いで劉備の元へ戻り、事の次第を報告。そこへ孔明が所用から戻り、「あいつは、そういう奴なんですよ。もっと大役を与えれば、自分の力を惜しみなく発揮しますよ」と言います。劉備は急いで彼を呼び戻し、自分の非礼を詫び、副軍師に任命しました。その後は、孔明とともに大活躍しましたとさ。

劉備に初めて会った時、孔明の推薦状を見せていれば、すんなり大役についていたでしょう。地方の小役人に任命された後も、惜しみなく自分の才覚を発揮していれば、すぐに出世したでしょう。そうしなかったのは、かつて黒田官兵衛の時にも書いた、「能ある鷹は爪を隠す」という精神だと思います。
ただし龐統の場合、計算ずくで、若干いやらしい感じがしますけど…。

何だかね、中国の歴史の話を読むと、いやらしい人間が多いです。ミエミエで、あけすけで、日本人のように慎ましやかな精神が感じられないです。
アジアカップのブーイングも、やり過ぎでしょ。みっともないでしょ。
そう思うにつけ、私は日本人だなあと再確認してしまいます。島国根性万歳!

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2004/08/04

前田慶次

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第九弾は前田慶次(慶次郎、利太、利益、穀蔵院瓢戸斎、一夢庵瓢戸斎など別名多数)。

かつて、「花の慶次」という漫画があったので、彼をご存知の方も多いでしょう。
彼は織田信長の家臣滝川益氏滝川一益のいとこ)の子供。側室だった母親が、前田利久前田利家の兄)と結婚したため、利久の養子となって前田家へ行きました。
その後、前田家は、長男である利久が父の跡を継いだものの、利家が信長の側近として活躍していたため、信長の鶴の一声で利家が跡継ぎとなります。
この時、慶次も利久も前田家を退去したようで、その後の約15年間の消息は不明。滝川一益の元にいたとも、京都や奈良で雌伏していたとも言われていますが、いずれも確証はありません。

約15年後、信長が本能寺で討たれ、柴田勝家が賤ヶ岳で秀吉に敗れたことにより、前田利家は能登、加賀を領することになりました。その際、慶次も利久も前田家に戻ってきたようです。
数年後、利久が死去したのですが、これを機に、利家とそりの合わなかった慶次は前田家を出奔。その際、物凄く寒い日に利家を茶会に招き、騙して水風呂に入れさせたというエピソードが伝わっています。彼は物凄くいたずら好きだったんです。

京都へ出た彼は、一介の浪人でありながら、公家、茶人などと交流を持ち、「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれるようになります。「傾奇者」とは、異様な身なりや突飛な行動をして、世間の注目を浴びるのを好む人のこと。現在の有名人に例えれば、窪塚洋介とか、日本ハムの新庄あたりが当てはまるでしょうか?
ただし慶次の場合、ただ単に変人として評判だった訳ではなく、風流、学識などの面でも才能を発揮し、知識人から注目を浴びていたようです。

この時期に、かつてここで取り上げた直江兼続と知り合い、関ヶ原に際して彼は上杉家に仕官します。上杉家と家康との直接対決は実現せず、上杉家は山形の最上家に矛先を変えたのですが、交戦中に関ヶ原で西軍が負けたため、退却することになります。
その際、慶次は殿軍を受け持ったのですが、わずか300人程度で1万以上の最上軍を翻弄したそうです。

戦後は京都に戻って、上杉景勝、直江兼続の助命嘆願に奔走。上杉家は米沢30万石への減封で許され、彼は米沢で僅かな俸禄をもらい、和歌や茶道などの風流に興じた穏やかな余生を送ったそうです。

彼が凄いなあと思うのは、戦場においても国士無双といった感じの豪傑で、和歌や茶道など風流の部分でも才人だったにもかかわらず、大名になってやろうとか、天下をとってやろうといった、野心をもたなかったこと。

物凄く悟り切った人なんです。目の前の利得に動じず、今、自分が生きたいように生きる、というスタンスを貫いた人なんです。浪人して「傾奇者」って呼ばれてるのを楽しんでいた感がありますし、戦場で貧乏くじに近い役を自ら買って出たり、関ヶ原戦後は各地の大名から高禄で仕官しないかという誘いがあったにもかかわらず、全て断ったり。

彼が残した詩の一節が、彼の生き様を端的に表しています。
「(前略)寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起きる、(中略)生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う」
自分の生きたいように生きてるから、死ぬことを恐れちゃいないって感じです。

私も浪人ですからね、彼のように格好良い生き方をしたいと思ってます。
でもね、何かと金が必要な訳です。出資馬のエサ代とか、携帯の料金とか、年金とか、保険とか、に車で来た時の駐車場代とかね。いまだに実家に厄介になってるとは言え、何かと金がかかるんで、彼のように目先の利得に動じない生き方ってのは難しいですね。

余談ですが、私が以前勤めていた会社には、前田慶次の末裔って人がいました。苗字はもちろん前田で、名前にも慶という字が入ってました。
羨ましいなあ。歴史に名を残してる人がご先祖様なんだから。

ちなみに、私のご先祖様と言えば、父方の先祖にアイヌの血が入っているらしい、という話を聞いたことがあります。言われてみれば、父方の親戚には、顔のつくりがアイヌっぽい人がちらほらいます。
おかげでね、大学の1、2年で北海道に住むことが決まった時に、「きっと、ご先祖様に呼ばれたんだよ」って、いろんな人に言われてしまいました。

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2004/07/21

黒田官兵衛

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第八弾は黒田官兵衛(孝高、如水)。

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彼は豊臣秀吉の参謀として大活躍した人です。そのエピソード全てを語り出すとキリがないので、今回は私が好きなエピソードをご紹介しましょう。

時は慶長5年(1600年)。関ヶ原の戦いに際し、黒田家は官兵衛の息子である長政が東軍に参加します。
隠居状態にあった官兵衛は、豊前中津の本拠地を中心に九州全土を支配下に治めようと軍事行動を開始します。これは彼の単独行動であり、当主である長政とはロクに打ち合わせもしていませんでした。彼の予想では、東西の一大決戦となれば勝敗は簡単にはつかず、長期戦となるのは必定。そのドサクサに紛れて九州を手中にし、ひいては天下を狙ってやろうと思っていたのです。

ところが、彼の予想に反して関ヶ原の戦いはわずか1日で決着がつきます。その状況下で戦闘を続けるのは叛乱ととられてしまうため、官兵衛は兵を退かざるを得なくなってしまいました。

傷心の彼の元に、彼の企みも知らず、彼の傷心も理解せず、長政が関ヶ原の報告に来ます。以下、そのやり取り。

長:お父さん、聞いてくださいよ。僕ね、関ヶ原で頑張ったんですよ!
官:ふーん。
長:でね、家康さんが僕に握手して「君のおかげだ」って感謝してたんですよ!
官:握手…、家康はどっちの手でお前に握手したんだ?
長:はあ? 何でそんなこと聞くんですか?
官:いいから、どっちの手なんだよ!
長:えーっと…、たしか、両手で握手してきたと思いますけど…。
官:で、お前はどっちの手を差し出したんだ?
長:はあ? そんなこと覚えてませんよ。
官:いいから、思い出せよ!
長:えーっと…、たしか、右手だったと思いますけど…。
官:ほーう。で、その時お前の左手は何をしてたんだ?
長:何って、何もしてませんよ。
官:このバカモンが!
長:???
官:わからんのか!
長:???
官:俺だったらな、空いてる左手で家康を刺して、天下取ってたわい!
長:…

何ともまあ、不敵な人です。

ただ、実際問題、官兵衛が家康を刺せる立場だったとしても、家康の取り巻き連中に返り討ちにされて終わりだったでしょう。官兵衛とてそれぐらいのことはわかっており、長政に家康を殺してほしいなんて期待もしてなかったと思います。
官兵衛は、長政が家康を刺さなかったのを怒っている訳ではなく、家康の手先に落ちぶれてはしゃいでる長政が情けなかっただけでしょう。

隠居の身でありながら、天下への野心を持ち続け、そういう覇気を持ち合わせていない息子を不甲斐無く思う。
老いてますますさかん、という感じですな。

もっとも、その覇気をむき出しにしていたために、主である秀吉に恐れられ、豊前中津で十数万石の小大名に落とされていたのも事実。「能ある鷹は爪を隠す」という精神を持ち合わせていれば、あるいは天下人になっていたかも知れません。
家康だって、若かりし頃はそういう謙虚な生き方をしていたからこそ、長じて天下人になれたのですから。

私の場合、別に「能ある鷹」ではありませんが、「爪を隠す」って精神は良いなあと思います。ところが現実では、何か自慢したくなるような話があると、ついついこれみよがしに喋ってしまいます。ちっとも「爪を隠す」の精神を実践できていません。
そういう部分で官兵衛に共感を抱いてしまうのです。

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2004/07/07

源頼朝・源義経

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第七弾は源頼朝源義経

yoritomo yoshitsune
なぜ、対照的な二人が両方とも好きなんだ、と思われる方が多いでしょう。そこで今回は、なぜ頼朝が義経を疎んじたのか、なぜ義経が悲劇のヒーローになってしまったのかを語り、私の気持ちをご理解していただければ、と思います。

①出自の違い
頼朝と義経は兄弟ですが、母が違います。頼朝の母は父義朝の正室であり、義経の母は側室です。
頼朝が源氏の棟梁たりえたのは、源氏の嫡流であり、嫡子であるから。頼朝はそれを非常に重要視していたので、同じ兄弟であっても側室の子である義経や範頼が、自分と同列に並べられるのを嫌がっていました。叔父の行家にさえ、無下な態度を取っていました。
これに対し義経は、同じ兄弟なんだから仲良くしようよ、という考えの持ち主でした。たとえ兄弟でも、上下関係をはっきりさせたい頼朝と、そうではない義経が、いずれ衝突しなければならなかったのは、いたしかたないことだったのでしょう。

②頼朝の人間不信
頼朝は非常に猜疑心の強い人でした。父義朝は、平治の乱で負けて逃げていた時、かつての家臣長田忠致にだまし討ちにされたのですが、その体験が、頼朝をそういう人間にしたのでしょう。
頼朝の味方でありながら、頼朝の命令によって殺されたのは、義経だけでなく、範頼、上総広常一条忠頼あたり。殺されなかったものの、疑われて謹慎処分などになったのは、畠山重忠武田信義あたり。
パッと思いついた名前を挙げただけなので、実際にはもっと多いと思います。ここに挙げた中でも、上総広常、畠山重忠などはかなり重要なポストにいた人で、この二人がいなかったら、頼朝の覇業は立ち行かなかったといっても過言ではありません。
そういう人でさえ、頼朝は全幅の信頼を置かなかったということです。それぐらい猜疑心が強く、人間不信だったということでしょう。

③義経の独断専行
木曽義仲追討、そして平家追討という局面で義経は表舞台に出てきます。頼朝は常に鎌倉にいて指示を送り、義経など現場の指揮官を操る立場にありました。
しかし、義経は頼朝の命令を待たず、独断で行動することが多々ありました。たしかに、いちいち鎌倉からの指示を待たず、現場の判断で動くべき局面もあったでしょう。
でも、勝手に他の勢力に援軍を仰いだりするのは、越権行為な訳です。今に例えれば、課長クラスの人間が、誰の許可も無く他の会社との合併の話を進めるようなもんですから。
義経としては、頼朝のために良かれと思ってやったことですし、結果的に義経の率いる軍は連戦連勝でした。それゆえ、自分の越権行為にそれほど罪悪感もなく、その義経の態度が、さらに頼朝の信頼を失うことになった訳です。

④目的意識の違い
義経の目的は、平家を討つことによって、父の仇をとるということと、源氏を再興するということの2つ。それ以上の考えは特に無かったと思います。
これに対し頼朝の目的は、この2つプラス、武家政権を確立するということ。平清盛のように、自分が公家や天皇の外戚になって政権を牛耳ろうというのではなく、あくまでも武士主導の、全く新しい政権を作ろうということです。
残念ながら、頼朝の目的を本質的に理解していたのはごく少数。北条時政義時親子と、大江広元梶原景時ぐらい。他の人は、この風雲に乗じて出世しようとか、義経同様、源氏を再興しようというところまでしか、頭は回っていなかったのです。
義経は実戦の戦略家としては優秀でも、政治、経済などの感覚が劣っていた、と後世の研究家は言いますが、義経だけではなく、当時の武士はみんなそんなもんです。武家政権という前代未聞の理想を掲げていた、頼朝の考え方が先進的だっただけ。その先進的な考えについてこれない人間が、頼朝に信頼されないのは、いたしかたないところ。義経もその一人だった訳です

この他にも二人の確執の原因は色々あるでしょうが、要するに二人の人間性や価値観の違いがもたらしたもの。小説やドラマなどでは、義経が悲劇のヒーローで、頼朝は非情な人間という描かれ方が多いですが、必ずしもそうではないでしょう。

本当の悲劇は、人間性や価値観が大きく異なる二人が兄弟として生まれ、その時代背景ゆえに、袂を分かたねばならなかったことだと思います。他の時代でも同じような兄弟の確執は良くあります。足利尊氏と弟直義織田信長と弟信行伊達政宗と弟小次郎(政道)、徳川家光と弟忠長など、数え上げたらキリがありません。

要するに私は、頼朝も義経も好きと言うより、二人の悲劇のストーリーそのものが好きでたまらないのです。

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2004/06/23

松永久秀

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第六弾は松永久秀

hisahide
彼の前半生は謎に包まれています。有力とされてる話では、京都で浮浪者の子供として生まれ、子供の頃は窃盗を繰り返して露命をつないでいたとのこと。十代になって寺の下男になり、その後は商人に奉公し、諸国を旅して見聞を広めたようです。

で、後半生は非常に波瀾万丈なので、五月雨式に列挙していきましょう。
①二十代半ばぐらいで三好長慶に仕官。
②長慶とともに、時の管領細川晴元を追い落とし、京阪を掌握。
③長慶と対立し、長慶の子の義興を毒殺、弟の冬康も久秀の讒言により殺される。
④長慶死去。久秀による毒殺との説もあり。
⑤三好三人衆(三好長逸三好政康岩成左通)とともに、幼主三好義継を掲げて、時の将軍足利義輝を暗殺。
⑥三好三人衆と対立し、東大寺の戦いで撃破。この際、東大寺大仏殿焼失。
織田信長足利義昭を奉じて上洛したため、信長に臣従。
⑧義昭が反信長同盟を提唱するに至り、これに参加し信長に反抗。
⑨義昭が信長に追放されたことにより、ふたたび信長に降伏。
⑩ふたたび信長に反旗を翻したものの、抗しきれず自殺。

ざっと、こんなところです。暗殺だの毒殺だのと、とにかく血塗られた感じで、しかもその相手は自分の主筋にあたる人々。そして、あっちについたり、こっちについたりと、風見鶏な感じ。武士の風上にも置けませんな。まあ、元々武士ではないけど…。

そんな久秀のどこが好きかというと、その死に様。信長に城を包囲されて絶望的な状況になった際、信長は、久秀が所有する平蜘蛛釜という茶釜をよこせば、命は助けてやると言ってきます。平蜘蛛釜は当時の誰もが垂涎の的だった、天下に二つとない名器。信長は以前から譲ってくれと頼んでいたのですが、久秀は断り続けていました。
久秀は最後の最後まで受け渡しを拒否し、釜の中に火薬を詰め、自分の首からぶら下げて火をつけ、釜もろとも爆死したそうです。

子供向けのヒーロー番組に出てくる、悪役そのものといった感じでしょ。
子供の頃の将来の夢が、「ウルトラマンも仮面ライダーも余裕でやっつけてしまう、物凄く強い怪獣になること」だった私としては、こんな久秀に憧れてしまう訳です。

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2004/06/09

直江兼続

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第五弾は直江兼続

kanetsugu
彼は上杉謙信の小姓として取り立てられ、謙信没後は跡継ぎの上杉景勝の軍師的な存在として活躍した人です。彼の素晴らしいところは色々ありますが、一番魅力的なエピソードは「直江状」でしょう。

関ヶ原の直前、徳川家康は大規模な戦闘を起こすキッカケを探していました。自分が事を起こせば、近江で謹慎している石田三成が対抗してくるのは必定。そこで三成を破れば、政敵を葬ることができるからです。
しかし、当時は大名同士の私闘は禁じられていました。そこで家康は、不穏な動きを見せている大名に難癖をつけ、そいつを懲らしめるという理屈で兵を挙げようとします。その標的になったのが、会津にいた上杉景勝。

家康は、景勝に対し何度も上洛を要請しますが、その都度断ってきたので、詰問状を送ります。主な内容は、
①領国の会津に帰ったきり上洛せず、中央での政務をほったらかしにしているのはなぜか。
②浪人を召し抱えたり、武器を買い集めたり、城を修復したりと、戦備を整えているのはなぜか。
③やましい事がないのなら、誓紙を提出しろ。
という感じ。

これに対して上杉側から家康に送られた書状が、直江兼続が書いた「直江状」です。その内容は、
①越後から会津に国替えになったばかりだから、こっちのことは気にせず、領国に帰って地元を固めろって言ってきたのは、家康さん、あんたでしょ。それが半年もしないで上洛しろって言われたって、こっちはバタバタしてんだよ。
②京都でぬるま湯に浸かってる家康さんみたいな武士は、金がたまるとブランド物の茶器や絵を買ったりするんだろうけど、俺たちは田舎者だから、金がたまれば刀とか鎧とか買うし、城を修復したりするんだよ。どっちが本物の武士らしいと思うのさ。
③誓紙を出せって言うけど、勝手に政略結婚とかして、秀吉秀頼との間で取り交わした誓紙の内容を無視してるのは、家康さん、あんたでしょ。日本で一番誓紙を無視してるあんたが、誓紙を出せなんて言うのは、ちゃんちゃら可笑しいんだけど。
という感じ。ここでは現代風の言葉で書きましたが、実際の文面もこんなニュアンスで書かれてます。そして最後に、「俺たちの言う事が納得できないんなら、かかってこいよ。勝負してやるから」という意味の言葉で締めくくってます。

当時家康は、なりふり構わず天下取りへ野心をむき出しにしていて、それを快く思ってない人達はたくさんいました。しかし、家康の持つ権力や兵力に恐れをなし、見て見ぬふりをして言う事を聞いていたのです。利家亡き後の前田家では、利家の妻を人質として差し出し、家康に臣従を誓ったほどです。
そういう状況下で、敢然と家康に立ち向かおうという心意気がアッパレでしょ。しかも、これだけ皮肉たっぷりで。

結局は上杉軍と家康軍の直接対決は実現せず、関ヶ原で家康が勝ったため、上杉家は会津120万石から米沢30万石の小大名に転落してしまいました。しかし、一寸の虫にも五分の魂と言いましょうか、まあ上杉家は大大名だったので一寸の虫という表現は合いませんが、魂ですよ魂。武士たるもの、魂がないとね。もっとも、その魂があったために、落ちぶれてしまった訳ですが。

でも、良いじゃないですか。目先の利得に動かされず、心意気だとか、魂だとか、そんなことで不器用な生き方しちゃうのも。
そう言えば、ここで取り上げてきた歴史上の人物って、そういう人ばっかり。次はそうじゃない人を取り上げようかしら。

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2004/05/26

北畠顕家

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第四弾は北畠顕家
今までの三人に比べると、知名度がガクッと落ちるかも知れませんな。
これからは、そういう人の話が続くことになると思います。

akiie
彼は南北朝時代、後醍醐天皇(南朝)側で活躍した人です。もともと公家の出で、幼少の頃は英才教育を受けていた、いわゆる温室育ち。しかし後醍醐天皇のもと倒幕の気運が高まると、大塔宮(護良親王)楠木正成らとともに倒幕運動に加わります。このあたりから、単なる頭でっかちではなく、実戦に基づく戦略にも開眼。国のあり方や、武士と公家の関係のあり方などにも目を向けるようになっていきます。

鎌倉幕府滅亡後は、わずか16歳にして陸奥守に任じられ、北条氏の残党や東北地方の豪族を抑えるため、多賀城に下向。次々に功を挙げ、東北地方を平定していきますが、そのころ中央では足利尊氏と朝廷の確執が表面化します。
武士を公家の飼い犬的な存在として、下々から搾取し、我が世の春を貪ろうという公家たち。一方、尊氏を武家の頭領として征夷大将軍に就かせ、武家政権を復活させたい武士たち。両者の対立は必然でした。

顕家は公家の出であり、天皇をトップに戴くのが理想と考えていました。しかし、腐敗した朝廷を見るにつけ、倒幕運動をしている時や、陸奥で接した、武士の価値観にも理解を深めます。彼は陸奥での自治政権設立をも考えるようになり、陸奥の豪族たちの中にもそれを望む声が高まりますが、最終的には朝廷方につきます。

2度にわたり陸奥から京へ遠征し、楠木正成や新田義貞とともに、尊氏軍と戦います。1度目は尊氏を破り、九州へ追い落としますが、2度目は結局惨敗し、わずか21歳で戦場の露と消えました。

かなり掻い摘んだ話なのでわかり辛いと思いますが、要するに、朝廷のやり方にかなり疑問を抱いていたものの、もともと朝臣である自分が天皇を見捨てるわけにはいかない、という生き方をした人です。

私は今までに2度会社を辞めてますが、会社の方針が嫌になったり、自由の身になりたかったりして、とっとと辞めました。もし顕家のような人間だったら、今でも頑張ってたんだろうなあとか考えると、顕家は偉いなあと思ってしまう訳です。

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2004/05/19

真田幸村

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第三弾は真田幸村

yukimura
彼は信州の小豪族、真田昌幸の次男として生まれました。真田家は、祖父幸隆の時から武田信玄に仕えていましたが、武田家滅亡後は、徳川上杉豊臣らと次々に従属的な同盟を結び、そのたびに彼は人質としてたらい回しにされました。

関ヶ原の戦いの時、真田家は苦渋の決断を迫られます。兄信幸は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘と結婚しており、幸村は石田三成の盟友大谷吉継の娘と結婚していたのです。結局、兄は東軍につき、父と彼は西軍につきました。
彼は父とともに上田城に籠り、西上する徳川秀忠軍を翻弄。秀忠は関ヶ原の戦いに遅参し、家康から叱責を受けるハメになりました。

しかし、西軍は関ヶ原で惨敗。所領を没収され、父とともに高野山近くの九度山に謹慎させられました。雌伏すること十数年、大坂冬の陣に際し、彼は配流先を脱出して大坂城に入城。「真田丸」と呼ばれる要塞を築き、またしても徳川軍を翻弄するものの、豊臣家首脳陣の腰が定まらず、戦いは和睦に落ち着きます。

そして夏の陣。大坂城はほとんどの堀を埋め立てられて機能を失ったため、彼は決死の突撃を試みます。一心不乱に家康の本陣を目指し、一時は家康も死を覚悟、切腹しようとするぐらい追いつめられました。しかし衆寡敵せず、幸村は乱戦の中に命を落とします。家康は「真田日本一のつわもの」と彼を称賛したそうです。

説明が長くなりましたが、彼のどこが好きかと言うと、寄らば大樹の陰ではなく、その大樹に対して真っ向勝負してやろうじゃねーか、という気概です。
もちろん、単なる感情論で家康に盾突いた訳ではないと思います。関ヶ原に際しては西軍に義父がいましたし、大坂の陣に際しては豊臣家に世話になった恩義がありましたから。しかし、彼以上に豊臣家に恩義を受けていた多くの人が、関ヶ原の時も大坂の陣の時も、家康に靡いていた訳ですから、ある種の反骨精神を実践した人だと言えるでしょう。

大坂の陣に際して、家康は彼が豊臣方につくのを恐れ、50万石レベルの大名にしてやるから俺のとこに来いと何度となく誘いましたが、彼は無下に断ったそうです。とても真似できない話ですな。

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2004/05/04

土方歳三

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二弾は土方歳三

多摩の農家の出身の土方は、20代後半で浪士組として京都へ行き、近藤勇たちと新選組を結成。新選組の活躍とともに武士として認められたものの、幕府崩壊後は各地を転戦し、函館でその生涯を終えました。享年35歳。

もともと武士でもないのに、当時の誰よりも武士らしく生きようとしたところが素晴らしいですね。幕府が崩壊し、その屋台骨的な存在だった御三家や、井伊(彦根藩)藤堂(津藩)らが、手の平を返すように薩長中心の新政府側に靡いたのに対し、最後まで幕府側の人間として死んでいったあたり、大したもんだと思います。

そもそも幕府から大きな恩を受けたわけでもないし、ここぞと言うところで、最後の将軍徳川慶喜にも、新選組の保護者だった会津藩主松平容保にも見捨てられたのに…。
まあ、ただ単に世渡りが下手だったという見方もあるけどね。

彼は厳粛な規律を冷酷に履行し、「鬼の副長」と恐れらました。しかし、現在も残っている彼の写真は端正な顔立ちで、祇園や島原でモテモテだったというエピソードにも納得がいきます。

hijikata.jpg
この写真は、彼が死ぬ1ヶ月ほど前に、彼の付き人だった市村鉄之助という隊士に託し、実家へ持って行かせたものです。市村は当時16歳。市村のような若い人を自分の道連れにするのは忍びないと、市村を戦場から脱出させたのです。当初、市村は土方と行動を共にすることを切望しましたが、土方はそれを説き伏せ、市村は涙ながらに函館を後にしたそうです。

土方は俳句を詠むのが好きで、彼が詠んだ句は今も残っています。ただし、小中学生が作ったような、甘酸っぱく、幼稚なものが多々あります。

では最後に、彼の残した甘酸っぱい句を。
「知れば迷い しなければ迷わぬ 恋の道」
思いっ切り字余りだし…。季語入ってないし…。

そんな土方歳三が私は好きです。

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2004/04/21

上杉謙信

私は歴史小説が好きなので、折に触れて、私の好きな歴史上の人物を紹介したいと思います。第一回目は上杉謙信

kenshin
もともと上杉謙信を好きになった理由は、「信長の野望」というゲームで戦闘力が圧倒的に強いので、いつも上杉謙信でプレイしていたからです。彼の小説を読むようになると、いろいろと謎の部分が多いので、興味が沸いてきました。

謎の部分を一つ紹介すると、彼は生涯妻を持たず、側室も持たず、独身で通したこと。その理由は、自分は毘沙門天の化身であり、女性を近づけるのは汚らわしく、神格も薄れてしまうという、彼独自の理論のもとの行動だったようです。しかし、そんなおとぎ話のような理由で、こんなストイックな行動ができるものでしょうか?
で、後世の研究家で穿った見方をする方々は、彼は実は女性だったんじゃないか、といった見解を示しています。これに関しては、興味深いエピソードがあります。

武田信玄などと何度も戦った訳ですが、長期戦になり、膠着状態が続くことがしばしばあります。その際、彼の体調不良が理由で、軍議が中止になったり、作戦行動そのものが延期になったりしたことが、あちらこちらの記録に残っています。いずれの場合も、彼の病状は腹痛と頭痛。ほぼ、月に一度のペースで、2、3日から一週間、彼は体調を崩していたようです。

これは、女性の月のものではないか、という話になるわけです。
また、時としてヒステリックになって訳のわからんことをした、というような記述もあちらこちらに残っており、これもどちらかというと女性的だという話になるのです。

しかし、彼は女人禁制の高野山を何度か訪れており、高僧との交流もあったので、辻褄が合いません。それに、もし女性だったとして、それを家臣たちは知っていたのかどうか。知っていたとしたら、あいつは女だって話がもっと広まってるでしょうし、知らなかったとしたら、どいつもこいつもバカだと思うし。

まあ、男であろうが、女であろうが、彼の行動は当時の一般的な戦国大名とは大きく異なっています。権威の無くなった朝廷や幕府をありがたがったり、領土拡大のための侵略戦争をしなかったりと、理解に苦しむ部分が多々あります。ヘソ曲がりな私としては、そういう風変わりな彼が好きなのです。

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