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2008/12/23

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第五話

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去、翌年には五大老の1人である前田利家も死去し、五大老筆頭である徳川家康が天下獲りに乗り出しました。

石田三成を失脚させたことで、家康は政務のほとんど独占するようになり、三成は挙兵を決意。それと知った家康は、隙を見せて三成に事を起こさせるため、まずは利家の息子前田利長に謀反の疑いをかけ、自ら討伐に出向こうとしました。

しかし、前田家は利家の嫁まつを人質として家康に差し出して恭順。そこで家康は上杉家をターゲットにします。この頃、上杉景勝直江兼続は領国の会津に戻っており、家康と対抗することも考慮しつつ秘かに軍備を整えていました。これが豊臣政権に対する叛意のあらわれだとして、家康は詰問状を送ります。これに対し、上杉側から回答された文書が、兼続が書いたと言われている「直江状」です。その内容に関しては、かつてここで兼続のことを書いた時に触れてますので、こちらをご参照のこと。

で、家康は約10万(諸説あり)の兵力で上杉討伐に向かうんですが、これはあくまでも三成に挙兵させるため京阪を手薄にするフェイント。家康は強敵上杉家とマトモに戦う気はなく、三成が挙兵したらとっとと反転して、三成を討つつもりでした。

では上杉家はどう考えていたのか。これが難しい。一般的には、兼続と三成の間で密約があって、東西から家康を挟撃しようという作戦があった、という説が有力ですけどね、会津と近江で挙兵して挟撃って、あまりにも雑な作戦で、現実味に乏しい。

こんだけ離れてて、今みたいな通信状況も整ってない中で、共同作戦なんて厳しいよ。それに、東西から侵攻して家康を挟撃にするにしては、上杉軍の総兵力が4万弱ぐらいじゃ少ないでしょ。そもそも、背後に伊達政宗最上義光と稀代の謀将が2人もいて、上杉軍はそれを無視して西進するのは難しいんだから、何を置いても真っ先にこの2人を味方につけるべきなのに、そういう交渉をした感じもない。

それやこれやを考慮して、私は兼続と三成の密約説には否定的です。上杉家は基本的に単独で家康との決戦を覚悟してたんだと思うし、秘かに手を組んでたと言われる佐竹義宣の戦力も、遊軍程度にしか考えてなかったんだと思ってます。

で、実際には東軍先鋒が宇都宮付近まで進出、上杉軍は伊達・最上に対して抑えの軍を残し、白河付近まで進出。鬼怒川を挟んでどちらか側が戦場になるという感じでしたが、このタイミングで三成が挙兵。家康は小山で軍議を開き、息子結城秀康らを上杉対策に残して、あとは反転して三成討伐の準備を始めました。

この際、反転した東軍を追撃するよう兼続が進言したのに、景勝は受け入れなかった、と言われてるんですが、これも密約説から派生した話のようで、兼続がそんな進言するとは思えない。前述の通り、伊達・最上が背後にいる以上、上杉軍は全力での追撃は無理。家康も一気に関ヶ原まで行くつもりはなく、福島正則黒田長政らを先に行かせて徳川軍本隊は江戸に待機する予定で、もし上杉軍が追撃して秀康隊を蹴散らしたとしても迎撃する態勢はとれた。この状況で追撃したって戦果は上がらんよ。

結局上杉軍は追撃せず、反転して伊達・最上に狙いを変えましたが、政宗はその場しのぎの和睦を申し出たため、最上攻略に向かいます。兼続は約3万の軍を率いて進撃し、いくつかの城を落としたものの、最上軍の抵抗も激しく、戦いは膠着状態に。

そんな中、西軍が関ヶ原で負けたという情報が届き、兼続は撤退することになります。撤退するとなった途端、最上軍だけでなく、政宗が和睦を破って伊達軍も追撃に参加したため、上杉軍はかなりしんどい状況に陥りました。しかし、前田慶次などの奮戦もあって、のちに家康から褒められたほど、兼続は見事な采配をしたそうです。

戦後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されます。上杉家は家臣を減らさない方針をとったため、財政は逼迫。そこで兼続は、倹約を旨として、殖産興業、インフラの整備などに力を入れ、農業のテキスト「四季農戒書」を著すなどして、財政の立て直しを図りました。ちなみに、のちに米沢藩主となって藩財政を立て直した上杉鷹山は、兼続の施策を大いに参考にしたそうな。

徳川政権下では、謙信以来の武門の家という評価は高く、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では今福鴫野の戦いで活躍、翌年の夏の陣では京都の警備を担当しました。大坂の陣に関しては、かつてここで書いてますので、詳しくはこちらをご参照のこと。

その後、兼続は元和5(1619)年に、景勝は元和9(1623)年に死去。跡継ぎがなく直江家は断絶しましたが、上杉家は紆余曲折がありつつ脈々と続いています。

これで一通り、年表をなぞることはできましたかね。あとは人物像を書こうかとも思ったんですが、そのあたりは大河ドラマにお任せしましょう。私の意にそぐわないようだったら、その都度ここで突っ込むことにしたいと思います。

2008/12/16

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第四話

天正8(1580)年、御館の乱に勝利し、名実ともに上杉謙信の跡継ぎとなった上杉景勝ですが、課題は山積みでした。

2年に及ぶ内乱の中で、能登や越中は柴田勝家率いる織田軍に侵食され、会津の蘆名盛氏も国境付近を侵略し、武田勝頼との同盟の代償として上野の領地の一部を献上。関東攻略の現場監督的な存在だった北条(きたじょう)高広上杉景虎側についた影響もあって、関東は北条氏政の支配が強くなり、領土という意味では、越後一国に押し込められる形となってしまいました。

そして当然のことながら、内乱によって上杉家の戦力は大幅に減少。さらに、戦後の論功行賞で不満が続出。前回触れたように、新発田重家の不満を抑え切れないことに責任を感じた安田顕元が自害し、重家が織田信長の誘いを受けて謀反、直江信綱が恩賞争いに巻き込まれて殺害される。まさに内憂外患といった感じで、新生上杉家はどん底からのスタートだった訳です。

そんな中で頭角を現し始めたのが、直江兼続です。直江家を相続し、上杉家の執政という立場になったことで、景勝も兼続を重用します。若手が突然重用されたことに対しては批判も大きく、景勝と同じく謙信の養子だった上条政繁が出奔してしまうなど、新体制は決してスムーズに進んだ訳ではありませんが、兼続は地道に功を重ねて信頼を集めるようになりました。

上杉家に転機が訪れたのは、天正10(1582)年。同盟相手の武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされ、そのまま織田家が武田家の旧領を支配したため、関東からは滝川一益、信濃からは森長可、そして越中からは柴田勝家と、三方から織田家の圧迫を受けるという、危機的状況に追い込まれます。ところがどっこい、その約3ヶ月後、信長が本能寺の変で死亡。滝川・森は逃げるように旧領へ帰還し、勝家も抑えの軍を残す程度で攻勢を一気に弱めたため、突然周囲が空き地のような状況になります。

しかし、そこで領土拡大ができるような余力は上杉家にはなく、徳川や北条が火事場泥棒をするのを、多少牽制する程度のことしかできませんでした。でもまあこれが、「上杉家は謙信以来、義に篤い」という評価につながる部分もあり、のちの天下人豊臣秀吉に厚遇される一因ともなりました。

その秀吉との交流は、秀吉が勝家と覇権争いをした賤ヶ岳の戦いの前に始まります。天正11(1583)年、秀吉は上杉家に勝家の背後を突くよう依頼、景勝はこれを受け入れたものの、重家の謀反への対処や、信濃に侵攻してきた北条への対処などに忙殺され、結局は秀吉の依頼に応えることはできませんでした。しかし、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは、越中の佐々成政に圧力をかけて秀吉の期待に応え、秀吉の信頼を得ていきます。

豊臣政権下において、景勝は五大老の1人に任じられて重きをなしました。また、兼続も秀吉の目に止まって、天正16(1588)年には豊臣の姓を授けられるなど厚遇され、毛利家の小早川隆景、伊達家の片倉景綱と並んで、「天下の三陪臣」と称されるようになります。

その後、小田原北条攻め、朝鮮出兵などで上杉家は武功を挙げ、慶長3年(1598年)に越後から会津120万石に加増転封されました。その際に秀吉は「120万石のうち30万石は兼続の分だからな」と言ったそうです。それぐらい兼続が秀吉から高い評価を得ていたということなんですな。

ただしこれは、大名の家臣のうち有能な人物を桁外れに厚遇して、その大名との仲を引き裂くという、秀吉の常套手段でもありまして、秀吉は同じようなことを他にもよく仕掛けました。小早川と片倉に対する厚遇や、かつてここでチラッと触れましたが大友家の立花宗茂に対する厚遇、徳川家康の元から石川数正を引き抜いたのなんかは、その代表例でしょうな。まあしかし景勝と兼続の場合は絆が固く、秀吉の思い通りにはなりませんでした。

そしてこの年の8月、秀吉が死去し、2年後には関ヶ原の戦いが勃発する訳ですが、そのあたりの話は次回にしましょうかね。

では、続きは第五話で。

2008/12/08

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第三話

天正6(1578)年、上杉謙信が急死し、その跡目をめぐって養子の上杉景勝上杉景虎が対立、のちに御館の乱と呼ばれるお家騒動が起きました。

先手を取ったのは景勝でした。謙信の死後すぐに春日山城の本丸を占拠し、自分が後継者であると宣言。三の丸にいた景虎を攻撃し、これを支えきれなくなった景虎は、春日山城から撤退します。そして、自分の後見人的な存在になっていた元関東管領上杉憲政の居館、御館を本拠地として景勝に対抗しました。

この間、両者は味方を集めるための工作にも奔走。景勝は、のちに直江兼続となる樋口兼続などの上田衆を筆頭に、自分と同じく謙信の養子である上条政繁山浦景国や、斉藤朝信河田長親など謙信股肱の家臣、本庄繁長新発田長敦など揚北衆と呼ばれる下越地方の領主を取り込みます。

一方景虎は、元関東管領上杉憲政を後ろ盾とし、上田衆と対立していた上杉景信などの長尾一族、繁長や長敦と対立していた鮎川盛長黒川清実などの揚北衆、厩橋城主で謙信の関東攻略の現場監督的な存在だった北条(きたじょう)高広、さらには景虎の実兄である北条氏政、北条家と同盟関係にあった武田勝頼、そして会津の蘆名盛氏など、かなりのビッグネームを揃えました。

越後一帯で両派閥に分かれての抗争が始まり、おおむね一進一退という状況になったため、注目は大勢力の氏政と勝頼の動向。氏政は同士討ちで弱ったところを衝いてやるかという感じで、参戦する気はあまりなかったんですが、勝頼はこれに乗じて越後を乗っ取ってやれって勢いで、いとこの武田信豊を大将に約2万の軍を信越国境に派遣します。

武田軍が来るってことで、形勢は景虎方に傾き、このままでは不利と悟った兼続は、景勝に勝頼との同盟を提案、景勝はこれを承諾して交渉に入りました。勝頼は、長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた後で、兵力も財政力も厳しい状況にあり、また氏政が動く気がないこともあって、この同盟を受け入れました。条件として景勝は多額の金と領地の一部を献上、勝頼は妹を景勝の嫁に差し出しました。

武田軍が撤退したため、氏政は重い腰を上げ、弟の北条氏照北条氏邦らを関越国境に派遣。しかし、景勝側は上田衆の本拠地である坂戸城を死守し、景勝と同盟を結んだ勝頼も北条軍を牽制する動きを見せたため、北条軍は乱の中心である春日山城や御館には全く近付けませんでした。結局、北条軍は抑えの軍勢を国境に残して撤退。

こうして武田も北条も景虎の援軍には来ないという状況になり、景虎側は一気に旗色が悪くなりました。景勝側に寝返る者もチラホラ出てくるし、和睦交渉に赴いた上杉憲政は殺されるし、といった塩梅。乱の勃発から約1年後、景虎は御館から脱出し、鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、城主が景勝側に寝返ったため、自害しました。

景虎の死後も、越後を二分した争いはなかなか収拾が付かず、何とか片付いたのは天正8(1580)年でした。しかし、戦後の論功行賞において、景勝が上田衆を優遇したために不満が続出し、新たな問題が次々と起きます。新発田重家の不満を抑え切れないことに苦悩して安田顕元が自害、その重家が織田信長の誘いを受けて謀反、さらには直江信綱が恩賞争いに巻き込まれて殺されるなど、波乱は収まりませんでした。

で、直江家というのは名家だったんですが、信綱に跡継ぎがおらず、このままでは断絶になってしまうということで、天正9(1581)年、信綱未亡人のお船が兼続に嫁ぎ、兼続が直江家を相続。ここに至ってようやく直江兼続という名前になります。これは、自分の側近である兼続に箔を付けるための、景勝の配慮だった訳です。このあたりの話は、大河ドラマでもじっくりやってくれることでしょう。

ここから景勝・兼続主従による上杉家体制が整ってきまして、まあいろいろ話はあるんですが、そのあたりは次回に持ち越しますか。

では、続きは第四話で。

2008/12/02

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第二話

天正6(1578)年、上杉謙信が死去し、その跡目をめぐってお家騒動が起きました。騒動の中心となった館の名前をとって、御館(おたて)の乱と呼ばれています。

謙信は妻帯しておらず、実子がいませんでしたが、上杉景勝上杉景虎上条政繁山浦景国と、4人の養子がいました。このうち、政繁と景国は上杉家分家の家督を継いでいたので、本家の相続資格はないに等しく、景勝と景虎が後継候補という状況。

景勝は弘治元(1555)年、父長尾政景、母仙桃院(謙信の姉)の次男として誕生。幼名卯松、元服して顕景。父政景は中越地方の坂戸城を居城とし、上田衆と呼ばれた配下を率いた長尾一族で、謙信が兄長尾晴景と対立した時は晴景側につき、謙信が家督を継ぐに至って謀反を起こしたものの、謙信に攻められ降伏。懐柔という意味もあって、謙信の姉が嫁入りしましたが、その後も何度か謀反の疑いをかけられた人物です。

永禄7(1564)年、政景は野尻池(野尻湖とは別のとこ)で船遊びの最中に溺死。この時、謙信の参謀だった宇佐美定満も一緒に死んでおり、謙信の密命を受けた定満による謀殺だったのではないか、という説も当時から囁かれています。

父が死に、長兄も早世していたため、顕景は謙信に引き取られて養子となり、その2年後あたりから戦陣にも参加。父の遺臣である上田衆を率いて活躍し、天正3(1575)年には上杉景勝と改名。謙信から弾正少弼の位も受け継ぎ、後継候補としてエリート的な扱いを受けていました。

その景勝の側近が直江兼続。永禄3(1560)年、長尾政景の家臣樋口兼豊の長男として誕生。幼名与六。景勝の近習として仕えていたらしく、政景が死んで景勝が謙信の養子となった時、一緒に謙信の元に引き取られたという通説がありますが、もっと後だったんじゃないかという説もあり、詳しいことは良く分かってません。

ただ、少年の頃から景勝に近侍していたのは間違いないようで、学友とでも言いましょうか、そういう存在だったと思われます。元服して樋口兼続となり、景勝とともに戦場にも赴きましたが、その頃はもちろん采配を任されるような立場ではなく、親衛隊みたいな供回りだったんでしょうな。

もう1人の後継候補である景虎は、元々北条三郎(氏秀という説もあり)という名前で、北条氏康の7男として天文23(1554)年に誕生。武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が成立した際、人質として武田家に出されたという話がありますが、それは別人の氏秀じゃないかという説が有力なので、混同を避けるためここでは三郎で話を進めます。

元亀元(1570)年、謙信と氏康が同盟し、その際に三郎は人質として越後に来ました。こういう場合の人質ってのは、本来あまり良い扱いを受けないんですが、三郎は容姿端麗な美少年だったこともあり、謙信に物凄く気に入られます。謙信の養子となり、謙信の昔の名前をもらって上杉景虎と改名し、景勝の姉を正室にしました。

景虎は、元々人質として越後に来たので、景勝とは違って自分の家臣という存在もほとんどおらず、戦陣での活躍というのは全くと言っていいほど記録に残っていません。どちらかと言うと風流とかそっち方面が堪能だったらしく、実父氏康と対立していた元関東管領上杉憲政と親しくなったのも、そのあたりが要因と思われます。

で、景勝・景虎の後継候補2人の序列がどうなってたのか、まあこれがはっきりしてなかったから、お家騒動になる訳ですが、謙信としては、越後国主と越後上杉家の当主を景勝、関東管領と関東上杉家の当主を景虎、という風に考えていたのではないか、と言われています。

両者の扱いという意味では、景勝は戦陣にガンガン連れて行き、景虎はほとんど参加させてないという違いがあり、景虎の方を大事に思ってたんじゃないか、いやいや景勝こそ頼りになると思ってたんじゃないか、などなどいろいろな説がありまして、まあ後世の人間が断じるのはなかなか難しいものがありますな。

で、謙信が後継者を明言しないまま突然倒れ、ロクに意識も戻らないまま死んだため、景勝と景虎の後継者争い、御館の乱が始まる訳です。

え~、本来なら今回、御館の乱をきっちり書くつもりだったんですが、登場人物紹介だけで結構な量になってしまったので、次回に持ち越します。

この勢いだと全何話になるかわからんね。もっと簡単に終わらすつもりだったんだけど。まあ大河ドラマが始まるまでには終わらせたいと思います。

では、続きは第三話で。

2008/11/26

上杉謙信・上杉景勝・直江兼続 第一話

来年の大河ドラマは直江兼続を主人公とした「天地人」でございます。兼続は上杉景勝の参謀的な存在だったんですが、世間一般での知名度はかなり低いことでしょう。そこで今回は、歴史上の人物シリーズ久々の復活ということで、兼続だけでなくその主君の上杉景勝、景勝の父である上杉謙信、以上3人のお話をしたいと思います。

かつてここで、謙信兼続について書いたことはありますが、その際はちょっとしたエピソードに触れただけだったので、今回はそれぞれの半生をツラツラと辿っていきます。とは言え、あんまり細かく取り上げてるとキリがないので、ザックリと年表をなぞる程度になりますのであしからず。それから、例によって私の独断と偏見が魑魅魍魎のごとく散りばめられて、史実や通説から外れる部分も出てくると思いますので、あらかじめご承知おき下さい。

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左から上杉謙信、上杉景勝、直江兼続

享禄3(1530)年、謙信は越後守護代長尾為景の4男として誕生。幼名は虎千代。長兄長尾晴景が父の後継者だったんですが、才気煥発な虎千代は父や兄から危険視されるような部分もあって、天文5(1536)年に春日山城下の林泉寺に預けられ、住職天室光育の教えを受けていました。

ところが父為景が天文11(1542)年に死去し(1536年死去という説もあり)、晴景では家臣団や敵対勢力を抑え切れなかった為、虎千代は翌年に林泉寺を出て元服。長尾景虎と名前を改め、中越地方の統治のため栃尾城に入城しました。

その後は晴景の名代といった感じで反乱分子を次々と討伐。その間、晴景はほとんど実戦には参加せず、酒色に耽って政務も怠っていたため、家臣団も景虎を頼るようになり、兄弟は対立していきます。

そこで越後守護上杉定実が両者の調停に乗り出し、景虎を晴景の養子として、晴景には隠居させるという形で、天文17(1548)年に景虎が家督を相続し、越後守護代に就任。その2年後、定実が死去し、後継者もいなかったため、時の将軍足利義輝によって景虎は越後国主として公認されました。

国主となってからは、越後国内の反乱分子の鎮圧、北信地方をめぐる武田信玄との対立、関東地方をめぐる北条氏康との対立、越中を中心とする一向一揆勢力との対立、といった感じで、席の暖まる暇もなく戦陣を駆け回ります。武田信玄との対立に関しては、かつてここで川中島の戦いを取り上げてますので、こちらをご参照のこと。

川中島の戦いの前後についての話は、2度手間になる部分も多いので大幅に割愛しますが、大事なことは天文21(1552)年、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を庇護したこと。憲政は上杉家の名跡と関東管領職を景虎に譲ると言い出しますが、景虎はとりあえずそれなりの結果を出すまでは待ってくれという感じで固持。

そして永禄3(1560)年、憲政を擁して関東に出陣し、最終的に氏康を小田原城まで追い詰めたことで面目は立ったという部分もあり、鶴岡八幡宮において関東管領就任式を挙行。同時に上杉家の家督を継ぎ、名前も憲政の1字をもらって上杉政虎と改めます。

その後、永禄4(1561)年には将軍義輝の1字をもらって上杉輝虎に改名、永禄12(1569)年には入道して不識庵謙信と号し、ここに至って1番有名な名前である上杉謙信となります。その間も信玄との対立は続き、一向一揆の蠢動もおさまらず、氏康とは同盟した時期もあったものの、その子北条氏政の代になって再び対立するなど、まあ相変わらずあっちへこっちへ戦いに明け暮れていました。

元亀4(1573)年、信玄が死去して武田からのプレッシャーが薄れると、謙信は関東攻略だけでなく、越中の一向一揆を中心とした勢力の鎮圧にも力を入れるようになります。さらに能登の畠山氏の内紛に介入する形で能登へ侵攻、謙信が肩入れしなかった側には織田信長が肩入れしていたため信長と対立し、天正4(1576)年には柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで一蹴します。

ところが2年後の天正6(1578)年、謙信は関東遠征の準備中に居城の春日山城で倒れ(脳卒中という説が有力)、その1週間後にあっけなく死去。跡目をめぐってお家騒動が勃発し、そこで景勝や兼続が出てくる訳ですが、ずいぶん長々となってきましたので、そのあたりの話は次回に持ち越しましょう。

では、続きは第二話で。

2005/11/02

南光坊天海

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第三十弾は南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)。

tenkai
彼が表舞台に出てくるのは関ヶ原前後。徳川家康に仕え、関ヶ原に際して小早川秀秋を誘降したり、織田信長に焼き討ちされた比叡山を再興したりします。その後は、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件に一役買い、風水や陰陽道に基づく江戸の都市開発、日光東照宮の造営など、多方面で活躍。家康、秀忠家光の3代にわたって参謀を務め、金地院崇伝(こんちいん・すうでん)とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧です。

で、彼には伝説的なエピソードがあります。それは、実は彼は明智光秀だったのではないか、というお話。その根拠とされるものを以下に列記しましょう。

彼の前半生は不明で、家康に仕えたのは光秀が死んだ直後らしく、年齢も同年代。
彼が秀忠と家光の名付け親という説があるが、2人とも光秀の名が1字入っている。
光秀名義で1615年に寄進された石灯篭が比叡山にある(1582年に死んでる筈)。
彼が採用した家光の乳母春日局は、光秀の重臣であり甥である斉藤利三の娘。
日光のいろは坂の途中に、彼が命名した「明智平」という場所がある。
明智家の家紋である桔梗の紋が、東照宮の木像など、日光のあらゆる建造物にある。
死後、慈眼大師という名を贈られ、日光、上野、日吉大社の、いずれも慈眼堂に墓があるが、「慈眼」という名は、光秀の位牌がある慈眼寺から命名したらしい。

に関しては単なる偶然か間違いで片付けられるものの、に関しては怪しげな雰囲気が漂います。当時、光秀は主殺しという悪名を着せられていた訳で、その光秀に関わる人を採用したり、光秀に因んで命名するというのは不自然です。しかし、天海が光秀であったとすれば、分からんでもない話になります。

では、なぜ家康は光秀を保護したのか、という話になりますが、それは本能寺の変の際の違約が原因という説があります。信長死後、家康と光秀が共同戦線を敷くという密約があったものの、家康が地元に帰って出陣準備をしている間に、光秀が豊臣秀吉に負けたため作戦が失敗。家康としては違約の負い目もあり、自分が天下を取れなかった屈辱もあったので、光秀を保護し、共に秀吉打倒に力を注いだ、ということです。

まあ、どこまでが真実で、どこからがおとぎ話か分かりませんが、わりかし辻褄が合うおとぎ話なんで、私は天海=光秀説を支持してます。

2005/10/04

江藤新平

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十九弾は江藤新平

shinpei
彼は幕末佐賀藩の人。下級武士の家に生まれた上、父が蟄居処分を受けていたことから、極貧の生活を送ります。少年時代は藩校で大隈重信らと並び称される秀才でしたが、学費が払えなかったため進学を断念。のちに脱藩して京都へ行き、長州の桂小五郎らと接触、佐賀藩を明治維新の舞台に参加させる糸口を作りました。

新政府ができると顕職を歴任し、司法卿に任じられて辣腕を発揮。三権分立の確立、汚職官吏の摘発に力を入れ、山県有朋井上馨を辞職に追い込むなど、聖域無き改革を推し進めます。しかし、山県や井上を支援する長州閥や、三権分立を否定する大久保利通らと対立。結局、明治6年に起きた征韓論に伴う政変で、西郷隆盛板垣退助後藤象二郎らとともに辞職、下野します。

彼が辞職したことを知り、佐賀では彼を掲げて反乱を起こそうという動きが熱を帯びます。彼とて、歪んだ新政府に対する反乱を否定するつもりはありませんでしたが、佐賀単独で立ち上がっても微力。薩摩や土佐と連携するぐらいでないと意味が無いので、彼は首謀者たちを諭すために帰郷。ところがここで誤算が生じることに。

その原因は岩村高俊。かつて河井継之助のことを書いた時にも出てきた、鉄砲玉のようなトラブルメーカーです。岩村は大久保の命令で九州へ向かったのですが、その命令は、有無を言わさず戦に持ち込み、討伐してしまえということでした。そういう仕事が得意な岩村は、一部の過激派を相手に挑発的に進軍し、見事に戦に持ち込みます。

やむなく江藤は反乱に組しますが、敗勢濃厚に。彼は虎口を脱し、薩摩や土佐に赴いて協力を乞うものの断られ、結局は厳重な警戒網によって捕縛されました。ちなみに、こういう非常時の警戒網を整備したのは彼でして、かつて自分が作った制度によって捕らえられた訳です。そして裁判になりますが、彼は反乱を起こした罪人に対する法を整備していませんでした。これが、のちに自分が反乱を起こすための布石だった、という言いがかりをつけられ、彼はさらし首の極刑によって殺されました。

後半生のエピソードは、中国戦国時代の秦の宰相商鞅とそっくりです。出来る人間だったため、法に忠実過ぎる人間だったため、周囲から疎んじられ、最後は自分が整備した法を良いように使われて無情に裁かれる。何とも皮肉な末路で、涙を誘いますね。

2005/09/21

北条政子

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十八弾は北条政子

masako
日本の歴史上の女性ってのは、悪女って呼ばれるような存在か、単なる傀儡って存在が多いです。たいがいは、自分の息子や旦那や一族の既得権益を守る、あるいは拡大するために、悪女と呼ばれるような無茶苦茶なことをやったり、傀儡と呼ばれるような名目上の存在に落ち着いたりする訳です。しかし、北条政子だけは違います。

源頼朝の死後、彼女は弟の北条義時とともに鎌倉幕府の礎を築いていきます。長男頼家が二代将軍となりますが、彼は蹴鞠などの遊興に耽り、政治もロクに見なかったため、御家人たちから見放されていきます。さらには妻の一族を抱き込んで権力を独占しようとしたため、彼女は頼家の追放を決意。頼家に毒を盛ったという説もありますが、とにかく彼を修禅寺に追放し、最終的には暗殺します。

その後、次男実朝が三代将軍となり、御家人の合議制なども確立。徐々に幕府の体制が仕上がりますが、父北条時政が後妻の牧の方をもらってからおかしくなっていきます。牧の方は典型的な悪女というタイプで、時政をそそのかして陰謀を巡らせ、畠山重忠父子に謀反の罪を着せて討伐。さらには娘婿の平賀朝雅を新将軍に立て、実朝を追放するというクーデターを企てたため、政子と義時は時政夫妻を追放します。

このように、息子を追放の上暗殺、父を追放と、かなり非情な措置をとりましたが、そうまでして彼女が守ろうとしたのは、自分の名誉や権力ではありません。その信条は、承久の乱の時に、朝廷に逆らうことを畏れる御家人たちに向かって言った、彼女の言葉に表れています。現代語訳すると、「武士はもともと貴族の召し使いのような存在だった。それが今のように武士の存在が高まったのも、頼朝が鎌倉幕府を作ったからじゃないか。その恩は山よりも高く、海よりも深いものだ」という感じ。自分のことだけではなく、武士の存在そのものを守るために、彼女は頑張っていたのです。

この他にも、実朝に公家から養子をもらう話を進めるために京都に行った時、後鳥羽上皇との面会を許されたものの、「私は田舎者ですから」と言って断るなど、歴史に良く登場する女性とは違い、彼女は名誉や権力のために動く人ではありませんでした。

とても立派な人だったんですが、残念ながら彼女の死後の鎌倉幕府は、北条家の名誉と権力を守るための専制政治が確立。彼女の理想とはかけ離れた存在になりました。

2005/09/07

大谷吉継

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十七弾は大谷吉継

yoshitsugu
彼は豊臣秀吉の幕僚として活躍した人。秀吉の配下は、尾張で仕官した加藤清正福島正則などの武断派と、近江で仕官した石田三成増田長盛などの文治派が対立していました。彼は近江出身で若い頃から三成の親友でしたが、戦場でも功を挙げ、官僚としても活躍する、文武両道で誠実な人だったことから、どちらの派閥からも頼りにされ、事あるごとに両派の仲裁をする存在でした。

両派の対立は、朝鮮出兵、そして秀吉の死によって本格化。ところが、その頃彼は癩病(ハンセン病)に冒されていたため、第一線を退いていました。視力も落ち、歩行も困難になる中、衝突を避けようと周旋しますが、辛うじて暴発を抑えるのが精一杯。

そして、関ヶ原を迎えます。彼は東征する家康軍に参加するため、領国の敦賀を出発。途中、三成から使者が来たため、佐和山城へ寄ったところ、挙兵の相談を受けます。形勢不利であることを訴え、思いとどまるよう説得しますが、三成の決意は固く、話は平行線。諦めて家康の元に赴こうとしますが、悩んだ末に三成と行動を共にします。

最終的に西軍につきましたが、彼がそう決断した理由の1つが茶会でのエピソード。その茶会は、主人が出した茶を、客が順番に回し飲みするというスタイル。彼はすでに病に冒されていたのですが、茶を飲んだ際、皮膚から膿が落ち、茶碗の中に入ってしまいました。次の番は三成。彼が茶碗を渡せずに逡巡していると、三成は「喉が渇いてんだから早くよこせよ」と言いつつ茶碗を取り、一気に飲み干しました。同席していた面々が呆気に取られる中、彼と三成の絆が不動のものになった訳です。

他の理由としては、自分の命がもう長くないことを悟り、戦場で死ぬことを望んだ、という部分もあったでしょう。しかしいずれにしても、単なる感情論で動いた訳ではなく、戦う以上それなりの戦略を講じました。三成が大将になるのではなく、お飾りの大将を豊臣秀頼、名目上の大将を毛利輝元に据えたあたりは、彼の進言だったようです。真田家との連携も、真田幸村が彼の娘婿だったのが1つのポイントでした。

関ヶ原の際、彼はすでに失明し、歩行不能だったことから、粗末な輿に乗り、耳で聞く戦場の音と、部下の報告をもとに、采配を振るったそうです。重病になりながら、命が尽きる最後の最後まで誠実に懸命に生き抜いた、あっぱれな男だと思います。

2005/08/17

上杉鷹山

私の好きな歴史上の人物シリーズ、第二十六弾は上杉鷹山(治憲)

youzan
彼は米沢藩の9代藩主。私の大好きな上杉謙信の上杉家ですが、謙信没後は苦難の道を辿ります。謙信の養子である初代藩主景勝の時、越後から会津120万石へ転封。その後、関ヶ原で西軍についたため、米沢30万石へ減封。3代藩主綱勝が跡継ぎを決めないまま急死した時は、本来なら取り潰しとなる筈でしたが、保科正之の周旋により吉良上野介(義央)の息子を迎えて4代藩主とし、15万石に減封。

こうして15万石まで落ちぶれた訳ですが、家臣の数を減らさない方針だったことから財政は逼迫。さらには度重なる飢饉で、まさに台所は火の車。そんな状況で、8代藩主重定に子供がいなかったため、鷹山が養子となって9代藩主となりました。

徹底的な財政改革をしなければいけないということで、彼は倹約と殖産興業に力を入れます。服装や食事も粗末なものにし、自邸の庭に桑を植えたり、新田開発の現場に出向いたりと、自らが模範となって改革を進めましたが、家臣たちはどこ吹く風。「謙信以来の武門の家」というプライドだけが一人前で、九州の小藩から養子に来た彼を嘲り、命令に従いません。さらには、彼が手ずから植えた桑を全て引き抜いたり、新たに開墾した土地を荒らしたりと、あまりにも露骨な嫌がらせをしました。

しかし、少しずつ彼の姿勢が浸透し、若い家臣を中心に足並みが揃ってくると、米沢織などの特産品も徐々に軌道に乗ってきます。頑として彼に反抗する家老たちには、切腹などの厳しい処断を下し、ようやく藩を挙げての改革が実を結んでいきます。決して順調に事が運んだ訳ではないですが、常に自らが先頭に立つことで、家臣や領民と苦楽を共にし、地道に改革を進めた努力家です。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という座右の銘が有名ですが、まさにこの言葉通りの生き方を貫きました。

「経済」という言葉は、もともと「経世済民」という言葉の略語で、今では本来の意味で使われていませんが、彼は本来の意味の「経済」を立て直した立派な人です。
そんな訳で、かつてケネディ大統領は、「日本で一番尊敬する政治家は誰?」と日本人記者に質問された時に、即座に「上杉鷹山」と答えたそうです。質問した記者は鷹山のことを知らなかったので、ポカンとしてたそうですが…。

より以前の記事一覧

私の出資馬
現役勝ち上がり馬

  •  グレンツェント
     【牡4歳・14戦6勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ボシンシェ
      13011170122s
    12月3日の中京・チャンピオンズC(GⅠ)は10着。今回もいつもより前からの競馬でしたが、終い伸び切れませんでした。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ブライトエンブレム
     【牡5歳・10戦2勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ブラックエンブレム A_2012005_2
    16年5月8日の東京・ブリリアントS(OP)で7着となった後、屈腱炎で休養していましたが、現在はトレセンに戻って調整中。12月24日の阪神11レースに出走予定。
     
  •  ストロングタイタン
     【牡4歳・13戦5勝】
     父:Regal Ransom
     母:Titan Queen 13051170715c
    11月18日の京都・アンドロメダS(OP)は2着。今回も頑張ってくれたんですが、ちょっとツキがないですな。12月17日の中山・ディセンバーS(OP)に出走予定。
     
  •  フェイマスエンド
     【牡6歳・27戦5勝】
     父:シルクフェイマス
     母:シルキーウィズ 11062150321
    11月18日の京都・アンドロメダS(OP)は13着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。12月17日の中山・ディセンバーS(OP)に出走予定。
     
  •  モルジアナ
     【牝5歳・16戦4勝】
     父:Dubawi
     母:サマーハ 12024160326s
    10月15日のレースは3着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。12月9日の中山10レースに出走予定でしたが除外になりました。
     
  •  イストワールファム
     【牝3歳・6戦2勝】
     父:ローエングリン
     母:ヒストリックレディ
      14030170820500
    11月11日のレースは3着。最内から馬群を捌いて差を詰めましたが、時すでに遅しって感じでした。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ローズウィスパー
     【牝4歳・19戦3勝】
     父:ワークフォース
     母:ローザミスティカ
      13061170326
    9月17日のレースはビリッケツ。その後に左前繋靭帯炎を発症したため休養に入りました。現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  デジタルフラッシュ
     【牡6歳・29戦2勝】
     父:アグネスデジタル
     母:マチカネベニツバキ 11031160904500
    11月18日のレースは11着。この馬なりにジワジワ来たんですが、展開が向かなかったですな。12月17日の中山9レースに出走予定。
     
  •  アグレアーブル
     【牝4歳・5戦2勝】
     父:マンハッタンカフェ
     母:プリティカリーナ 13014160703500
    16年7月3日のレースで2勝目を獲得後は脚部不安で休養し、約1年振りにトレセンに戻りましたが、また脚元がイマイチで立て直すことになり、現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  オリエンタルダンス
     【牝5歳・23戦2勝】
     父:キングカメハメハ
     母:ダンスノワール 12027160326500
    12月10日のレースは7着。番手から良い感じで直線に入ったんですが、ほぼ伸びなかったですな。
     
  •  ブラストワンピース
     【牡2歳・1戦1勝】
     父:ハービンジャー
     母:ツルマルワンピース
      15019171119
    11月19日のレースで見事に新馬勝ち。父譲りのダイナミックな末脚で豪快に差し切ってくれました。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  アーモンドアイ
     【牝2歳・2戦1勝】
     父:ロードカナロア
     母:フサイチパンドラ
      15018171008
    10月8日のレースで初勝利。単勝1.2倍の圧倒的1番人気に応え、余裕綽々の競馬で3馬身半差の圧勝でした。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ネームユアポイズン
     【セン3歳・5戦1勝】
     父:ハーツクライ
     母:リップスポイズン
      14005170325
    11月12日のレースは9着。去勢したのに今回も若いところを出しまくって1番人気を裏切っちゃいました。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ブルーヘヴン
     【牝3歳・10戦1勝】
     父:パイロ
     母:ローズカーニバル
    Blueheaven1
    10月15日のレースは13着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。12月16日か17日の中山か中京に出走予定。
     
  •  シンシアズブレス
     【牝4歳・17戦1勝】
     父:ダイワメジャー
     母:クラウンピース
      13037160305_3
    12月2日のレースは11着。押し出されるようにして逃げたんですが、直線なかばで一杯になっちゃいました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     

私の出資馬
現役未勝利馬

  •  ブライトクォーツ
     【牡3歳・15戦0勝】
     父:ワークフォース
     母:レースドール
     
  •  オルボンディール
     【牝2歳・2戦0勝】
     父:ステイゴールド
     母:サダムグランジュテ
     
  •  キープシークレット
     【牝2歳・3戦0勝】
     父:ダイワメジャー
     母:ウーマンシークレット
     
  •  ベルフロレゾン
     【牝2歳・2戦0勝】
     父:クロフネ
     母:ウインフロレゾン
     
  •  カポラヴォーロ
     【牡2歳・4戦0勝】
     父:Munnings
     母:My Anguilla
     
  •  アストロローグ
     【牡2歳・1戦0勝】
     父:シニスターミニスター
     母:フォチュネイター
     

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