後三年の戦い・第四話
歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦い第四話、最終話です。
第一話は戦いに至る経緯
第二話は後三年の戦いの前半
第三話は後三年の戦いの後半
について述べました。今回は後日談です。
まずは源義家ですが、戦いに勝利したものの、勝手に清原一族の内紛に介入し、本来朝廷に納めるべき税を勝手に戦いに使ったと弾劾され、官位を剥奪されてしまいました。戦後約10年が経った承徳2(1098)年に、一連の独断は不問に付されますが、朝廷は義家の権力伸張を怖れ、冷遇し続けます。
その後、康和3(1101)年には、息子の義親が九州で反乱を起こすなど、義家にとっては地位を危うくするようなことも起き、結局、後三年の戦い以降は不遇のまま生涯を終えました。
とは言え、何度も触れているように、東国の武士団からは「武門の棟梁」として慕われました。のちに頼朝が挙兵した時に東国の武士団が続々と従ったのは、義家以降の源氏の功績によるところが大きいですし、奥州藤原氏が義経を庇護したのも、義家が藤原清衡を助けた恩に報いたという部分が大きかったのでしょう。
まあ、そういった重代の恩義うんぬんだけじゃなく、単純に平家隆盛の現状に対する反抗という部分や、目先の権益を求めて源氏に従ったという部分もあるんだけどね。
続いて藤原清衡ですが、戦後の陸奥を無難に統治したこともあって、寛治6(1092)年頃に陸奥押領使に任命され、陸奥の軍事警察権を公的に認められました。その一方で、平泉に極楽浄土を再現するような寺院を次々に造営。今に残る中尊寺金色堂も、もちろん清衡の造営によるものです。
その後の奥州藤原氏は、2代目基衡、3代目秀衡と、平泉で半自治政権を維持し続けましたが、義経を庇護していたことが主因で頼朝と対立。4代目泰衡は義経を襲撃して自害に追い込み、頼朝に恭順の意を示しますが、頼朝はこれを受け入れず、総勢約30万とも言われる大規模な討伐軍を組織し、奥州藤原氏は滅亡しました。
こうやって見てみるとね、前九年の戦いでは頼義・義家親子、後三年の戦いでは義家、そして秀衡の時代に義経を庇護し、その後は頼朝による奥州征伐という感じで、東北地方は源氏が物凄く深く関わってます。源氏台頭の主因は、この東北地方にあると言っても過言ではありませんな。
それと、平家はどちらかと言うと朝廷工作を進めて地位を築いたのに対し、源氏はあくまでも戦場で功名を挙げて地位を築いたあたり、やはり「武門の棟梁」としての自意識が大きかったんでしょうし、源氏に従った武士団の「武門の棟梁」に対する期待というのも大きかったんでしょう。
まあもちろん、平家も元々は反乱分子や海賊衆の討伐による戦功で地位を築いた訳だし、平清盛にしても保元・平治の乱を契機に出世した訳で、「武門の棟梁」たる資格は充分にありました。しかし、「平家にあらずんば人にあらず」という状況に至った経緯に関しては、朝廷工作による部分が大きいんでね、やはり源氏の方が生粋の武士という感じがするし、「武門の棟梁」にふさわしい存在たり得たんでしょうな。
以上、歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦いでした。
おしまい。














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