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2008/03/18

後三年の戦い・第四話

歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦い第四話、最終話です。
第一話は戦いに至る経緯
第二話は後三年の戦いの前半
第三話は後三年の戦いの後半
について述べました。今回は後日談です。

まずは源義家ですが、戦いに勝利したものの、勝手に清原一族の内紛に介入し、本来朝廷に納めるべき税を勝手に戦いに使ったと弾劾され、官位を剥奪されてしまいました。戦後約10年が経った承徳2(1098)年に、一連の独断は不問に付されますが、朝廷は義家の権力伸張を怖れ、冷遇し続けます。

その後、康和3(1101)年には、息子の義親が九州で反乱を起こすなど、義家にとっては地位を危うくするようなことも起き、結局、後三年の戦い以降は不遇のまま生涯を終えました。

とは言え、何度も触れているように、東国の武士団からは「武門の棟梁」として慕われました。のちに頼朝が挙兵した時に東国の武士団が続々と従ったのは、義家以降の源氏の功績によるところが大きいですし、奥州藤原氏が義経を庇護したのも、義家が藤原清衡を助けた恩に報いたという部分が大きかったのでしょう。

まあ、そういった重代の恩義うんぬんだけじゃなく、単純に平家隆盛の現状に対する反抗という部分や、目先の権益を求めて源氏に従ったという部分もあるんだけどね。

続いて藤原清衡ですが、戦後の陸奥を無難に統治したこともあって、寛治6(1092)年頃に陸奥押領使に任命され、陸奥の軍事警察権を公的に認められました。その一方で、平泉に極楽浄土を再現するような寺院を次々に造営。今に残る中尊寺金色堂も、もちろん清衡の造営によるものです。

その後の奥州藤原氏は、2代目基衡、3代目秀衡と、平泉で半自治政権を維持し続けましたが、義経を庇護していたことが主因で頼朝と対立。4代目泰衡は義経を襲撃して自害に追い込み、頼朝に恭順の意を示しますが、頼朝はこれを受け入れず、総勢約30万とも言われる大規模な討伐軍を組織し、奥州藤原氏は滅亡しました。

Go3nen_2

こうやって見てみるとね、前九年の戦いでは頼義・義家親子、後三年の戦いでは義家、そして秀衡の時代に義経を庇護し、その後は頼朝による奥州征伐という感じで、東北地方は源氏が物凄く深く関わってます。源氏台頭の主因は、この東北地方にあると言っても過言ではありませんな。

それと、平家はどちらかと言うと朝廷工作を進めて地位を築いたのに対し、源氏はあくまでも戦場で功名を挙げて地位を築いたあたり、やはり「武門の棟梁」としての自意識が大きかったんでしょうし、源氏に従った武士団の「武門の棟梁」に対する期待というのも大きかったんでしょう。

まあもちろん、平家も元々は反乱分子や海賊衆の討伐による戦功で地位を築いた訳だし、平清盛にしても保元・平治の乱を契機に出世した訳で、「武門の棟梁」たる資格は充分にありました。しかし、「平家にあらずんば人にあらず」という状況に至った経緯に関しては、朝廷工作による部分が大きいんでね、やはり源氏の方が生粋の武士という感じがするし、「武門の棟梁」にふさわしい存在たり得たんでしょうな。

以上、歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦いでした。
おしまい。

2008/03/11

後三年の戦い・第三話

歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦い第三話です。
第一話は戦いに至る経緯
第二話は後三年の戦いの前半
について述べましたので、今回はその続きです。

後三年の戦い・後半

Go3nen3

・沼柵の戦い

永保3(1083)年、源義家の裁定により、清原清衡家衡が奥六郡を分割相続しましたが、その不平等な内容により、家衡は不満を募らせます。とは言え、自らが掌握する兵力もたかが知れているし、他の清原一族も清衡と家衡のどちらに従うという訳でもなく日和見を決め込んでいたため、しばらくは手を出さずに地固めに専念します。

そして応徳2(1085)年、清原一族の本拠地である出羽において、ある程度の勢力を確保した家衡は行動に出ます。まずは江刺の清衡の館を襲撃、清衡の妻子や郎党の多くがここで死にますが、清衡本人は何とか虎口を脱しました。その後、清衡は義家の後援を依頼、義家は待ってましたという感じで清衡支持を表明し、兄弟の争いに介入します。

これを受けて家衡は出羽に退き、沼柵に立て籠もります。これに対し義家と清衡は連合軍を組織して出陣。しかし沼柵は川に挟まれた要害の地で、周辺も湿地帯が多かったため、騎馬隊を展開できるような場所ではなく、連合軍は苦戦を強いられます。数ヶ月の小康状態が続くうちに冬になり、凍傷で離脱する兵も多く、加えて食料不足に陥り、前九年の戦いにおける黄海の戦いのような状況になってしまいました。

結局連合軍は得るところもないまま撤退します。経緯はどうあれ、陸奥守義家が率いる軍を退けたということで、日和見を決め込んでいた叔父清原武衡が家衡支持を表明。沼柵は要害の地とは言え、平地にポツンとある状況なので、山城というスタイルの金沢柵に拠点を移すよう武衡が提案し、家衡はこれを受け入れて金沢柵に移動します。

・金沢柵の戦い

沼柵の戦いで何もできなかった義家と清衡は、態勢を立て直して寛治元(1087)年9月、金沢柵に向けて出陣します。山城に籠った家衡・武衡軍に対し、なかなか有効な戦果を挙げられませんでしたが、清原一族の長老吉彦秀武が義家・清衡軍に参加して状況は変わります。

秀武は、要害の地に籠る家衡・武衡軍に対し、包囲して兵糧攻めをするよう義家に進言。義家はこれを採用しました。ちなみにこれが、日本で初めての兵糧攻めと言われています。

この兵糧攻めは効果てきめんで、家衡・武衡軍は極度の飢えに悩まされます。これ以上の抵抗は無理と悟り、途中から義家の元に参陣していた義家の弟義光に投降の仲介を申し出ますが、義家はその要求を拒否して総攻撃を開始。11月14日、進退窮まった家衡と武衡は、金沢柵に火を放って逃亡するんですが、2人とも捕まって斬首されました。こうして後三年の戦いは終結しました。

戦後、義家は事の次第を朝廷に報告、恩賞を願い出ましたが、朝廷はこれを受け付けませんでした。と言うのも、この戦いはあくまでも清原一族の内紛による私戦であり、朝廷からは前九年の戦いの時のような詔は出されていなかったからです。

この理屈をもって、朝廷は義家を弾劾。曰く、朝廷の許しもなく勝手に軍を動かして清原一族の内紛に介入した、本来朝廷に納めるべき税を勝手に戦いに使った、というものでした。結局義家は官位を剥奪され、公的な恩賞も一切出なかったため、義家の元に馳せ参じた武士団に対し、私財を提供してその功に報いました。

朝廷としては、義家がこれ以上勢力を伸ばしては厄介、ということでこういう態度を取り、武士団が義家に所領を寄進することさえも禁じます。しかしこの逆境において、義家が私財を投じて恩賞を提供したことから、むしろ武士団における義家の名声は高まり、義家こそが武士団を統率する「武門の棟梁」として敬われるようになりました。

一方清衡も、あくまで私戦ということで官位などは貰えなかったんですが、抵抗勢力を駆逐し、義家も陸奥から去ったため、陸奥一帯を治める大勢力となります。姓も清原から藤原に戻して藤原清衡と名乗り、平泉に拠点を定めて、栄華を極めた奥州藤原氏の礎を築いていきました。

以上、後三年の戦いの後半でした。
では、続きは第四話で。

2008/03/05

後三年の戦い・第二話

歴史上の戦いシリーズ第五弾、後三年の戦い第二話です。
第一話は戦いに至る経緯について述べましたので、今回はその続きです。

後三年の戦い・前半

Go3nen2

・吉彦秀武挙兵

専制体制を作り上げようとしていた清原真衡ですが、彼には子供がいませんでした。いくら自分の思い通りの体制を作っても、それを継ぐべき人間がいなきゃ意味が無い。子供がいないからと言って、血の繋がりも薄い弟の清衡家衡なんかを後継者にしたくない。そこで、平家から成衡という養子を迎えて、正式に後継者とします。この成衡に箔をつけるため、源頼義の娘を嫁に迎えることになり、永保3(1083)年春、胆沢で盛大に祝宴が行われました。

その祝宴に当然清原一族はみな集まりました。長老吉彦秀武も出羽から祝いの品をたくさん抱えて来まして、真衡に挨拶をしようとしたんですが、真衡は碁を打っていて相手にしません。真衡としては、いちいち家臣なんぞに直接挨拶せんでも良い、という考えもあったんでしょう。また、当日は朝廷や源氏や平家からも来賓が来ていた訳で、その前で一族の長老を一家臣として扱い、自分の権威を見せつけようとしたのかも知れません。

しかしこの扱いに秀武はブチ切れ、祝いの品々を投げつけて、出羽に戻り挙兵します。これに対し真衡は、不満分子を排除できる絶好の機会とばかり、すぐさま討伐軍を編成し、出羽に向かいました。

ところが、真衡が出陣した隙を突いて、秀武と意を通じた清衡と家衡が、留守になった真衡の領地を襲撃。これで腹背に敵を受ける形になってしまったため、真衡はひとまず胆沢に戻り、ちょうどこの頃、陸奥守に任命されて多賀城に来ていた源義家の後援を求めます。これを受け、大して兵力のなかった清衡と家衡は、それぞれ江刺衣川の自分の館に引き篭もったため、真衡は再び秀武討伐のため出羽へ向かいます。

・源義家介入

あくまでも清原一族内部の揉め事であり、朝廷に対する反乱という類の揉め事ではなかったため、義家の立場としてはどちらかに加担する訳にもいかず、とりあえずは事の次第を確認するため巡検使を派遣します。しかし、ちょうど巡検使が真衡の館の近くにいる時に、真衡が出羽へ行った隙を付いて清衡と家衡が真衡の館を襲撃。巡検使は否応なく争いに巻き込まれ、真衡側に付いてしまいました。結局、義家は真衡の依頼を了承してこの争いに介入することになります。

義家が真衡側に付いたことで、趨勢は定まった感があったのですが、ここで思わぬ事態が発生します。秀武討伐のため出羽へ向かっていた真衡が、突然病死してしまったのです。敵を失った秀武は「自分は真衡と揉めただけであって、義家に逆らうつもりなど毛頭ない」として義家に恭順の意を表し、真衡の後継者である成衡は、争いに巻き込まれることを怖れて下野に逃げてしまいました。

この混乱を収拾するため、義家は清衡と家衡を懐柔して投降させると、真衡の遺領である奥六郡のうち、南の三郡(胆沢、江刺、和賀)を兄の清衡に、北の三郡(稗貫、紫波、岩手)を弟の家衡に相続させました。一見、平等な配分に思えますが、清衡が相続した3郡の方が豊かな土地だったため、家衡は不満を溜め込みます。

「なんであいつの方が良いとこ貰ってんだよ。だいたいあいつは清原の姓を名乗ってるけど、そもそも清原となんの関係もねーだろ。藤原経清安倍頼時の娘の間に生まれたやつじゃねーか。清原から見たって、義家から見たって、敵の一族の人間じゃねーか。まあ俺も安倍頼時の血が流れてるけど、親父はまぎれもなく清原武貞だぞ。清原の後継者として、俺の方がふさわしいに決まってんのに、なんであいつの方が優遇されてんだよ」という感じ。

同じ様な思いを抱く清原一族は多かったようです。さらに、清衡が安倍一族の旧領を任せられることになったのを受けて、かつて安倍一族や経清に従っていた人が清衡の元に集まるようになり、それも清原一族の反感を買う要因となっていました。

こうなることは義家とて百も承知だったようです。つまり、清衡と家衡の対立を煽って、清原一族を弱体化させようという狙いがあった訳です。そこに自分が陸奥守として介入して、手柄も挙げちゃおうという狙いもあったようです。それでわざわざこういう不平等な裁定をしたようなんですな。思惑通り両者は対立しますが、残念ながら全てが義家の筋書き通りになる訳でもないのが、面白いとこなんですけどね。

以上、後三年の戦いの前半でした。
では、続きは第三話で。

2008/02/26

後三年の戦い・第一話

歴史上の戦いシリーズ第五弾、今回は、前回取り上げた前九年の戦いの続編という感じになりまして、後三年の戦いでございます。

登場人物や一連の流れを知っておくと話が早いと思いますので、前回のシリーズを読んでいない方々は、まずは前九年の戦いをざっくり読んでいただけると幸いです。

後三年の戦いに至る経緯

Go3nen1

康平5(1062)年に前九年の戦いが終結し、清原武則は鎮守府将軍に任命され、清原一族が治めていた仙北三郡(現在の秋田県東部)に加え、安倍一族が治めていた奥六郡(現在の岩手県西部)をも掌握。鎮守府将軍という立場なので、鎮守府のある胆沢に本拠地を構え、東北地方における最大の勢力となりました。

清原一族はもともと武則の兄光頼が当主だったのですが、これを機に武則が当主という立場になります。普通はここで権力争いとか起きそうなもんですが、清原一族の絆は固く、特にトラブルもないままスムーズに武則体制が確立されたそうな。

その後、武則の息子武貞が跡を継ぎ、さらにその息子真衡が跡を継ぐんですが、ここに至り、いろいろ問題が起きてきます。まあ歴史を紐解いても現在においても、だいたい3代目ってのはキーポイントになりますな。初代や2代目ってのは、その地位を築くために本人も努力や苦労をしてるけど、3代目ってのは生まれながらに地位を約束されてることが多いですからね。

武則や武貞の頃までは、清原一族は一致団結して頑張ろうっていうスタイルで、それは前九年の戦いにおいても同じでした。しかし真衡は、同じ一族であっても自分は当主であり、それ以外はあくまでも臣下に過ぎない、という専制的なスタイルを作ろうとしました。弟の清衡家衡、叔父の武衡、一族の長老吉彦秀武などにも、そういう態度を貫きます。このあたり、のちに源頼朝が、弟の範頼義経、叔父の行家や従兄弟の義仲らを邪険に扱ったのと似てますね。

真衡がどうしてそういうスタイルを作ろうとしたのか、その理由の1つとして挙げられるのが、清衡と家衡という2人の弟との関係性です。実はこの3人、血の繋がりがバラバラ。

長男の真衡は、武貞とその先妻の間に生まれたんですが、2人の弟は後妻の子。しかもその後妻というのが、前九年の戦いで源氏や清原一族に敗れて斬首された藤原経清の嫁でして、元を正せば安倍頼時の娘。彼女は前九年の戦いの後、経清との間に生まれた子を連れて、仇敵清原一族の武貞と再婚したんですな。

その連れ子というのが次男の清衡でして、当然のことながら清原一族と血のつながりは全くないですし、父経清や祖父頼時や伯父貞任の仇の元で育てられるという、過酷な少年時代を過ごした訳です。そして三男の家衡は、母が後妻として武貞に嫁いでから生まれた子です。簡単に並べますと以下のようになります。

長男真衡:父清原武貞、母先妻
次男清衡:父藤原経清、母後妻(安倍頼時の娘で藤原経清の元嫁)
三男家衡:父清原武貞、母後妻(安倍頼時の娘で藤原経清の元嫁)

そりゃあこういう状況じゃ、真衡が自分こそ清原一族で唯一無二の後継者で、2人の弟は反逆者の血が流れてるバッタモン、みたいに蔑視するのも仕方ないでしょう。その気持ちが一族全体に向けられ、自分こそが当主で、お前らは俺に従ってりゃ良いんだ、という考えを持つに至るのも分からなくはないですね。

しかし、そういう真衡の独断専行に対し、不満を抱え込む一族が増えていしまい、清原家の内紛という感じの後三年の戦いが始まります。

以上が後三年の戦いに至る経緯です。
で、前九年の戦いの際にもお断りしましたが、この戦いは解明されてない部分が多いため、私の独断と偏見で書いてますので、事実と異なる部分も多々あると思います。地図や年代も推定の部分がいくつかありますので、あしからず。
では、続きは第二話で。

私の出資馬
現役勝ち上がり馬

  •  グレンツェント
     【牡4歳・12戦6勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ボシンシェ
      13011170122s
    5月20日の平安S(GⅢ)は10着。今回も58kgの斤量が影響したのか、良いところなく惨敗しました。現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  ブライトエンブレム
     【牡5歳・10戦2勝】
     父:ネオユニヴァース
     母:ブラックエンブレム A_2012005_2
    16年5月8日の東京・ブリリアントS(OP)で7着となった後、しばらくして屈腱炎が判明したため休養しており、現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  ストロングタイタン
     【牡4歳・11戦5勝】
     父:Regal Ransom
     母:Titan Queen 13051170715c
    8月6日の小倉・小倉記念(GⅢ)は8着。好位からの競馬でしたが、4コーナーではもう手応えが怪しく、1番人気に応えられませんでした。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  フェイマスエンド
     【牡6歳・26戦5勝】
     父:シルクフェイマス
     母:シルキーウィズ 11062150321
    8月6日の小倉・小倉記念(GⅢ)は7着。中団から終いまずまずの伸びを見せ、タイタンには先着してくれました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  モルジアナ
     【牝5歳・14戦4勝】
     父:Dubawi
     母:サマーハ 12024160326s
    6月25日のレースは9着。その後は放牧に出てましたが、現在はトレセンに戻って調整中。9月10日の中山10レースに出走予定。
     
  •  イストワールファム
     【牝3歳・5戦2勝】
     父:ローエングリン
     母:ヒストリックレディ
      14030160128
    8月20日のレースで大外一気を決めて2勝目を獲得。1番人気に応えて力の違いを見せ付けてくれました。
     
  •  ローズウィスパー
     【牝4歳・18戦3勝】
     父:ワークフォース
     母:ローザミスティカ
      13061170326
    6月11日のマーメイドS(GⅢ)は11着。捲り気味に3コーナーから動いていったんですが、直線なかばで力尽きました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  デジタルフラッシュ
     【牡6歳・27戦2勝】
     父:アグネスデジタル
     母:マチカネベニツバキ 11031160904500
    5月27日のレースは11着。特にこれといった見せ場もなく、後方からチラッと差を詰めただけでした。現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  アグレアーブル
     【牝4歳・5戦2勝】
     父:マンハッタンカフェ
     母:プリティカリーナ 13014160703500
    16年7月3日のレースで2勝目を獲得しましたが、その後は脚元に不安が出て休養に入っており、現在は北海道の牧場にいます。
     
  •  オリエンタルダンス
     【牝5歳・20戦2勝】
     父:キングカメハメハ
     母:ダンスノワール 12027160326500
    4月15日のレースは3着。その後は放牧を挟んで新潟で出走予定でしたが、状態がイマイチで再調整することになりました。現在は滋賀県の牧場にいます。
     
  •  ネームユアポイズン
     【セン3歳・4戦1勝】
     父:ハーツクライ
     母:リップスポイズン
      14005170325
    7月15日のレースは5着。後方から捲り気味に追い込んできたんですが、上位には届きませんでした。その後に去勢し、現在は福島県の牧場にいます。
     
  •  ブルーヘヴン
     【牝3歳・8戦1勝】
     父:パイロ
     母:ローズカーニバル
      Blueheaven1
    8月12日のレースはブービー。馬場の影響もあったかハナには立てず、今回も3コーナで一杯一杯でした。
     
  •  シンシアズブレス
     【牝4歳・15戦1勝】
     父:ダイワメジャー
     母:クラウンピース
      13037160305_3
    8月13日のレースは2着。中団から終い良い脚で追い込んで、見せ場は作ってくれました。8月27日の札幌9レースに出走予定。
     

私の出資馬
現役未勝利馬

  •  キンナリー
     【牝3歳・2戦0勝】
     父:ディープブリランテ
     母:カラヴィンカ
     
  •  ブライトクォーツ
     【牡3歳・11戦0勝】
     父:ワークフォース
     母:レースドール
     
  •  ストーミーワンダー
     【牡3歳・1戦0勝】
     父:ストーミングホーム
     母:ラッシュウインド
     
  •  アーモンドアイ
     【牝2歳・1戦0勝】
     父:ロードカナロア
     母:フサイチパンドラ
     
  •  ブラストワンピース
     【牡2歳・未出走】
     父:ハービンジャー
     母:ツルマルワンピース
     
  •  オルボンディール
     【牝2歳・未出走】
     父:ステイゴールド
     母:サダムグランジュテ
     
  •  キープシークレット
     【牝2歳・2戦0勝】
     父:ダイワメジャー
     母:ウーマンシークレット
     
  •  ベルフロレゾン
     【牝2歳・未出走】
     父:クロフネ
     母:ウインフロレゾン
     
  •  カポラヴォーロ
     【牡2歳・1戦0勝】
     父:Munnings
     母:My Anguilla
     
  •  アストロローグ
     【牡2歳・未出走】
     父:シニスターミニスター
     母:フォチュネイター
     

私の出資馬
競走年齢未満の馬

私の出資馬
すでに引退した馬