来年の大河ドラマは直江兼続を主人公とした「天地人」でございます。兼続は上杉景勝の参謀的な存在だったんですが、世間一般での知名度はかなり低いことでしょう。そこで今回は、歴史上の人物シリーズ久々の復活ということで、兼続だけでなくその主君の上杉景勝、景勝の父である上杉謙信、以上3人のお話をしたいと思います。
かつてここで、謙信と兼続について書いたことはありますが、その際はちょっとしたエピソードに触れただけだったので、今回はそれぞれの半生をツラツラと辿っていきます。とは言え、あんまり細かく取り上げてるとキリがないので、ザックリと年表をなぞる程度になりますのであしからず。それから、例によって私の独断と偏見が魑魅魍魎のごとく散りばめられて、史実や通説から外れる部分も出てくると思いますので、あらかじめご承知おき下さい。



左から上杉謙信、上杉景勝、直江兼続
享禄3(1530)年、謙信は越後守護代長尾為景の4男として誕生。幼名は虎千代。長兄長尾晴景が父の後継者だったんですが、才気煥発な虎千代は父や兄から危険視されるような部分もあって、天文5(1536)年に春日山城下の林泉寺に預けられ、住職天室光育の教えを受けていました。
ところが父為景が天文11(1542)年に死去し(1536年死去という説もあり)、晴景では家臣団や敵対勢力を抑え切れなかった為、虎千代は翌年に林泉寺を出て元服。長尾景虎と名前を改め、中越地方の統治のため栃尾城に入城しました。
その後は晴景の名代といった感じで反乱分子を次々と討伐。その間、晴景はほとんど実戦には参加せず、酒色に耽って政務も怠っていたため、家臣団も景虎を頼るようになり、兄弟は対立していきます。
そこで越後守護上杉定実が両者の調停に乗り出し、景虎を晴景の養子として、晴景には隠居させるという形で、天文17(1548)年に景虎が家督を相続し、越後守護代に就任。その2年後、定実が死去し、後継者もいなかったため、時の将軍足利義輝によって景虎は越後国主として公認されました。
国主となってからは、越後国内の反乱分子の鎮圧、北信地方をめぐる武田信玄との対立、関東地方をめぐる北条氏康との対立、越中を中心とする一向一揆勢力との対立、といった感じで、席の暖まる暇もなく戦陣を駆け回ります。武田信玄との対立に関しては、かつてここで川中島の戦いを取り上げてますので、こちらをご参照のこと。
川中島の戦いの前後についての話は、2度手間になる部分も多いので大幅に割愛しますが、大事なことは天文21(1552)年、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を庇護したこと。憲政は上杉家の名跡と関東管領職を景虎に譲ると言い出しますが、景虎はとりあえずそれなりの結果を出すまでは待ってくれという感じで固持。
そして永禄3(1560)年、憲政を擁して関東に出陣し、最終的に氏康を小田原城まで追い詰めたことで面目は立ったという部分もあり、鶴岡八幡宮において関東管領就任式を挙行。同時に上杉家の家督を継ぎ、名前も憲政の1字をもらって上杉政虎と改めます。
その後、永禄4(1561)年には将軍義輝の1字をもらって上杉輝虎に改名、永禄12(1569)年には入道して不識庵謙信と号し、ここに至って1番有名な名前である上杉謙信となります。その間も信玄との対立は続き、一向一揆の蠢動もおさまらず、氏康とは同盟した時期もあったものの、その子北条氏政の代になって再び対立するなど、まあ相変わらずあっちへこっちへ戦いに明け暮れていました。
元亀4(1573)年、信玄が死去して武田からのプレッシャーが薄れると、謙信は関東攻略だけでなく、越中の一向一揆を中心とした勢力の鎮圧にも力を入れるようになります。さらに能登の畠山氏の内紛に介入する形で能登へ侵攻、謙信が肩入れしなかった側には織田信長が肩入れしていたため信長と対立し、天正4(1576)年には柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで一蹴します。
ところが2年後の天正6(1578)年、謙信は関東遠征の準備中に居城の春日山城で倒れ(脳卒中という説が有力)、その1週間後にあっけなく死去。跡目をめぐってお家騒動が勃発し、そこで景勝や兼続が出てくる訳ですが、ずいぶん長々となってきましたので、そのあたりの話は次回に持ち越しましょう。
では、続きは第二話で。
最近のコメント